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アメリカ連邦最高裁 ゴバイテス事件判決
マイナーズヴィル学校区、教育委員会ほか 対 ウォルター・ゴバイティス本人および、年少者リリアン・ゴバイティス、ウィリアム・ゴバイティスの代理人としてウォルター・ゴバイティス
憲法 930、信教の自由:公立学校の生徒への国旗敬礼義務づけ
1.公立学校生徒に国旗敬礼儀式への参加を義務づけることは、真剣な宗教的基盤に基づき、参加を拒否した生徒の場合は、適切な法的手続きなしに修正第十四条に保証された自由を侵害することにはならない。
2.信教の自由を保証する憲法は、組織的あるいは個人の信仰あるいは非信仰に対する政府の介入を排除し、そうした信仰あるいは非信仰の伝達を保護し、自らの信仰活動の過程で他者の宗教的見解と対立した個人は憲法によって懲罰を確実に免除される。
3.憲法の信教の自由の保証の範囲を決定するにあたって、宗教的信念の主張は可能なかぎり許容されなければならない。
4.人々の自由と国家的統一維持との関係の問題が司法の判断を必要とするとき、広く行われるべきは、賢明な調整には何が求められているかについての判事の個人的な見解ではない。
5.裁判所が法を愚劣だと信じても、それはまったく憲法違反の証拠とはならない。
1940年4月25日審理、1940年6月3日判決
第三連邦巡回控訴裁判所に対する、学校当局が国旗敬礼儀式への参加を引き続き原告子弟の公立学校通学の条件とすることを禁ずるよう求めた訴状の却下を拒否したペンシルヴェニア東部地区裁判所の判決を確認する判決の見直しを裁量上訴令状について。現判決を破棄する。
同様の判例については、以下を参照(略)
ゴバイティスの子弟の退校処分は、アメリカ憲法のもとの権利を何ら侵害していなかった。
ゴバイティスの子弟の退校処分は、ペンシルヴェニア憲法のもとの権利を何ら侵害していなかった。
ゴバイティスの子弟が、聖書に記された全能なる神の法に反すると信じて、学校行事において国旗への敬礼を拒否したことは、信仰の自由にも土つく行為ではない。
マサチューセッツ州ケンブリッジのジョージ・K・ガードナー氏が、被控訴人側の主張をを行った。
ペンシルヴェニア州フィラデルフィアのジョゼフ・F・ラザフォード氏とハイデン・コヴィントン氏、ハリー・M・マコーヒー氏が、被控訴人側の主張を行う書面を提出した。
被造物たる人間は、自由に神への信仰を実践し、全能なる造物主たる神の法に従うべきであり、全能なる神の法と直接矛盾すると良心的に信ずる国家の法律に従うことを強制されない。
控訴人が決めて、施行している、児童と教師の国旗敬礼儀式への参加を強制する規則は、アメリカ憲法修正第十四条に違反する。
マサチューセッツ州ケンブリッジのジョージ・K・ガードナー氏、ニューヨークのアーサー・ガーフィールド・ケイズ、オズモンド・K・フレンケル、ウィリアム・G・フェネル、ジェロームM・ブリッチィ各氏、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアのアレクサンダー・H・フレイ氏は弁護士として、アメリカ市民的自由連合のために書面を提出した。
フランクファーター判事が、法廷の見解を述べた。
本法廷は、訴訟において、自由と権威の主張がぶつかる争いを調停しなければならないとき、重大な責任に帳面する。だが、その自由が良心の自由にかかわるとき、そして権威が国民意識を守るための権威であるとき、司法の良心は最も厳しい試練にさらされる。本事件が、そのひとつである。
リリアン・ゴバイティス、12歳と弟のウィリアム、10歳は、毎日の学校行事の遺憾である国旗敬礼を拒否し、ペンシルヴェニア州マイナーズヴィル公立学校で退校処分になった。地元教育委員会は、教師と教師と生徒の両方に、この儀式への参加を義務づけている。儀式はよく知られているものである。右手を胸にあて、以下の誓いを斉唱する。「わたしはアメリカ合衆国の国旗と、それが象徴する共和国への忠誠を誓う。すべての者のために自由と正義とを備えた不可分の国、単一の国家」誓いの言葉が斉唱されている間、教師都政とは右手を延ばして国旗に敬礼する。ゴバイティス一家は、聖書を神の言葉として最高の権威としている「エホバの証人」に属している。子供たちは、国旗への尊敬の動作は聖書の命令によって禁じられていると心から信じるように育てられた。
ゴバイティスの子供たちは、ペンシルヴェニアが定めている義務教育年齢であった。したがって、彼らは無料の教育を拒否され、両親は子供たちを私立学校に通学させなければならなかった。これによる金銭的負担から解放されるために、父親は自らおよび子供たちの代理として、本訴訟を起こしたものである。彼は当局が引き続き国旗敬礼儀式への参加を子供たちのマイナーズヴィル学校への通学の条件とすることを禁じるよう求めた。この問題について審理したのち、マリス判事は地方裁判所において、思慮深い見解に基づき、訴訟の予備段階で救済を与えた。この措置は巡回控訴審で確認された。この決定が本法廷のいくつかの見解と対立するので、この訴えについて裁量上訴に基づき審理を行うこととした。本法廷の友人として、アメリカ法曹協会権利憲章委員会とアメリカ市民的自由連合から提出された優れた書面が、われわれの結論の助けになった。
われわれは、良心的信仰に基づきこれを拒否した児童へのそうした儀式への参加要求が、適切な法的手続きなしに、憲法修正第十四条に保証された自由を侵害するかどうかを決定しなければならない。
特定のドグマだけを唯一のものとして信仰させ、あるいはこれを他に強制しようとする何世紀もの争いが、権利憲章で信仰の自由を保証することにつながった。修正第一条とこれを包含する修正第十四条は、国教の樹立禁止と、すべての宗派の自由な信仰の実践の確保を通じて、こうした苦い法的争いの繰り返しを防止しようとするものである。この貴重な権利がきわめて広く受容されており、本件のように、個人の両親が社会の必要性と感じられるものと衝突するときにのみ、その範囲が問題とされる。
たしかに、宇宙の究極の謎とこれと人間との関係に関する信念の積極的追求は、法の及ぶところではない。政府は、組織されたあるいは個人的な信念あるいは非信念の表明に介入してはならないだろう。信念、あるいは超自然を信じないことの周知流布は、教会であろうと礼拝堂であろうと、モスクであろうとシナゴーグであろうと、会堂であろうと集会所であろうと、守られる。同様に、憲法は、自らの信仰活動の過程において、他者の宗教的信念と対立した個人について、その他者が少数者であっても、政府を支配する者であっても、懲罰を免れることを広く保証している。
しかし、人間の多岐にわたる関係により、その宗教的義務に対する概念が、世俗の人間としての利害と対立することがある。憲法の保証を根拠として、社会が共通の偉大な目的のために必要と考える行為、あるいは一般的な善にとって危険と思われる行為に対する懲罰を免除しなければならないのは、いかなる時であろうか。この問題を取り上げれば、単一の原則で複雑な人生のすべてに回答することはできないという真実を想起しないわけにはいかない。どれほど反体制的であれ、他者の、あるいは大多数の尊重する信念に違背するものであれ、信仰の自由があるという権利は、それ自身が絶対性の否定である。だが、良心に従う自由には社会生活のなかで制限がないということを認めることは、それ自体、歴史的に宗教的寛容の保護の基本となってきた多数の原則の存在を否定することになる。したがって、われわれの今回の任務は、裁判所の任務が往々にしてそうであるように、一方が一方を破壊することがないように、二つの権利を調和させることである。しかし、ここで問題になっている良心の保証は、非常に微妙で貴重なものであるから、宗教的信念の主張は可能なかぎり許容されなければならない。
信教の自由の司法的実現にあたって、われわれは歴史的概念に関心をむける。憲法が保証している信教の自由によって、一般的であって、特定宗派の教義遵守を直接に対象とするものではない法が排除されたことはない。法無効の司法判断について、歴史的裏付けのない権利章典の起草者たちの見解を根拠に正当化することはできない。宗教的寛容を求める闘いの過程で、個人の良心的な躊躇を理由に、宗教的信念を推進し、あるいは制約することを目的としていない一般的な法遵守からの例外が認められたことはない。単に政治的社会の関心事と対立する宗教的信念を抱いているからといって、市民が政治的責任の遂行を免れたことはないのである。この調整の必要性は繰り返し認識されてきた。多くの場合、政治的権威の行使が停止されてきたし、いっぽう、基本的な信教の自由への配慮は損なわれずにきた。・(関係判例略)こうした事例ではすべて、問題となり、宗教的信念から遵守を拒否した個人への適用が認められた一般的法は、それなしでは宗教的寛容そのものが実現されない、秩序ある静謐な自由な社会の確保と維持に不可欠だと立法者が考えた政府の特定の権力の発現であった。また、「適切な手続」によって保証されている言論の自由は、信教の自由よりも絶対的な免責特権を得ているのでもない。たとえ、言論の自由が、異教的であったり社会で支配的な思想と対立するものであっても、これを表明し、広め伝達する十分な機会が与えられるという歴史的概念を超えるものであるとしても、また黙殺されるとわかっている思想を伝達する自由を含むとしても、ゴバイティスの子供たちのような生徒が、他のすべての子供に求められている国家の団結推進のための行為を免除されなければならないか、という問題は依然として残る。ここで問題となっているのは、法律的価値の序列のなかで、何ものにも劣らない事柄である。国家の一体性は国家安全保障の基本である。これを達成するための適切な手段を選択するという立法者の権利を否定すれば、思想表明の自由を尊重して、ビラが散らかる醜い街路を我慢することが適切かどうかというのとはまったく問題を提起することとなる。
本件のような状況は、民主主義と対立する根本的な問題の段階である。これはリンカーンが忘れ難いあのジレンマの中で提起した「緊急事態にある政府は国民の自由を守るため強力すぎてもよいか、あるいは国家の存在を維持できないほど弱いものにとどまるべきであるか」という問題でる。単なる条文解釈やお題目ではこのジレンマは解決できない。そして、この問題で司法の判断が要求されたときには、広く行われるべきは、賢明な調整には何が必要かという判事の個人的な見解ではない。
先に引用した事例とは異なり、本件は非宗教社会の特定の必要性あるいは利害、すなあち過程の保護、健康の増進、共同防衛、政府支出を賄うための公的歳入の確保といった事柄の推進のための立法権力の行使にかかわるものではない。そうではなく、これらの具体的な政府活動のすべてが前提としている組織された政治的社会の存在そのものが問題となっている。自由な社会の究極的な基盤は、一体感の絆である。こうした感情は、国民の伝統をとりまとめ、世代から世代へと引継ぎ、これによって文明を形成する貴重な共同生活の継続性を生み出すのに役立つ心と精神の活動すべてによって、強化される。「われわれはシンボルによって生きる」国旗はどんなに大きなものであっても内的相違のすべてをを憲法の枠組みのなかで超越する国家的統一のシンボルである。本法廷は、かつてこう述べた。「国旗は国家権力のシンボル、真の最高の意味での自由の記章である……これは政府が被統治者の同意のもとに成り立っていること、法律で律せられた自由、恣意的な権力の行使から守られる保証、そして外国の侵略に対する自由な政体の絶対的安全を意味する
本件は、ペンシルヴェニアの立法者がマイナーズヴィルの子供たちに直接に正式に国旗敬礼を命じたとして、考えるべきである。また、ゴバイティスの家族のように、良心が良心的な躊躇をもっている場合も子供を例外としなかったと見るべきである。また望ましい目標というものがあり、これは、公立学校の児童がこれを吸収しやすい精神をもっている発達段階で、共通の経験を分け合うことで、適切なと場所と状況において実践することにより、国家の希望と夢、苦難と犠牲を尊重する心を育むべく企画された行事を、適切な時と場所と状況において実践することにより、確保されると信じることを示唆したということでもある。したがって、われわれが決定すべき事柄は、わが国の各州の立法者と多くの郡や校区の当局者は、それなしでは結局は信教の自由もあり得ない国家としての一体感を涵養するためのさまざまな方法の適不適を決定することを禁じられているかどうかということである。公立学校において国家生活のシンボルに対する普遍的な尊敬の動作を命じる立法者の判断に、憲法が保証する良心の自由の違法な侵害だというレッテルを貼ることは、法廷が明示的で明確な支配的能力を有していない分野で、教育学的、哲学的教義を宣言することに等しい。共通の国家に対する共通の感情を呼び起こすために役立つ影響力はさまざまである。あるものは厳格すぎると見えるだろうし、あるものは、明らかに愚劣であろう。しかし、目的は正当である。そして、目的達成の効果的な方法が何であるかは、いまなお不明であり、科学をもってしても裏付けられないのであるから、国旗敬礼という広く信頼された行動を立法権限の外に置くことは、われわれとしてはできない。適切な場での国旗敬礼の義務づけを許すことが、指導者への従属強制の種を蒔くことだと見ることは、理性を嘲弄し、全歴史を否定することである。
こうした多くの教育課程に必要な義務づけによって、児童に愛国的感情を喚起する訓練をすることが賢明かどうかは、我々が判断すべきことではない。そうした方策が愚劣であると考えたとしても、われわれの見解は憲法違反の根拠とはならない。われわれは、最も深い愛国心はさまざまに織りなされる信念に制約のない場を与えることで育まれると言いたくなる。本件の条例が推進しようとしているとみられる関心の観点からしても、最も少数派の宗派に対して、本件のような体制への一致を強制しないことが最善である。しかし、法廷は教育政策を議論する場ではない。人種的出自も宗教的帰属もこれほどに多様である国民のなかで、個人の特異性を尊重しつつ、民主主義の伝統的な理想への効果的な忠誠を確保するという微妙なプロセスについて、対立する見解のなかから選択することは、われわれの権限ではない。それをするならば、当裁判所を事実上、国家教育委員会にしてしまうことになりかねない。そのような権限は、当法廷には与えられていないし、当法廷はその権限を引き受けるべきではない。
われわれは現在、市民的発展の形成段階にある。われわれのあいだには、社会のなかで児童を訓練する最善の方法は何かということについて、きわめて多様な心理的、倫理的見解が存在する。こうした相違、および単一の鉄壁の教育システムを、このように多様性を包含している国家に強制することがためらわれるがゆえに、公教育はわれわれの最も優れた伝統的な民主的制度の一つであっても、権利章典は国家がすべての児童に公教育を受けさせることを強制することを禁じているのである。だが、本法廷が特定の教科あるいは実践が公立学校の児童の心にわが国制度への愛着を育むのに最善であるという立法者の判断を検閲するということは、まったく異なる事柄である。
学校当局が主張しているのは、児童の心に親が植え付けたものとは異なる国旗の異議への配慮を目覚めさせる権利である。こうした試みにおいては、親自身はその説得力を用いて国家の教育システムが推進使用とする忠誠の正当性と妥当性に反論するのを妨げられない権利をもっているのであるから……これが宗教的肝要の最も重要な側面である……国家は通常、親の権威と対立するという不利を被る。憲法に保証された自由が侵害されていることが議論の余地のないほど明らかである場合をのぞき、個人の自由は、……民主的ぷろせすによる救済策が開かれ、妨げられていないかぎりにおいて……広く行われている政策に反して判例法が強制するのではなく、人々の習慣に根づいているときに、最もよく維持される。国旗敬礼が、良心に基づいた疑いを抱かない者に対して、教育課程の一部として許されることは議論をまたない。しかし、儀式が義務づけられても、反対者には例外的免責が与えられるべきだるとわれわれが主張することは、そうした免責措置が学校の起立に困難の要素を発生させ、また他の児童に疑いを生じさせて、それが行事実践の効果を弱めるかもしれないこと。抱かせるかもしれないという立法者の判断には何の根拠もないと主張することになる。
親に権威を与える家族関係、権威と独立が貴重であること、それどころか、すべての自由の享受は、国旗によって要約される秩序ある社会の前提である。こうした文明之究極之価値維持に献身する社会は、自己保存のために、小さな相違や困難がどのようなものであれ、人々を包括的な忠誠のもとで結びつける、こうしたほとんど無意識の感情を繰り返し教えるために教育プロセスを利用するだろう。つまり、人々が信じたいことを信じる権利、他者にそれぞれの信念を説得する権利、それぞれが礼拝の儀式のために選んだ場所で集う権利がすべて尊重されるかぎり、そのプロセスは利用される。
司法による検討はそれ自身が人民政府への制約であるが、わが国の憲法制度の根幹の一部である。だが、立法部に裁判所にも、深く尊重される自由の番人の役割が委ねられている。政治的変化をもたらすあらゆる効果的手段が自由に与えられているところでは、愚かな法律を放棄する教育も、それ自身、自由の訓練である。このような論争を司法の分野に移すよりも、世論の公開討論の場として立法府の議会で、立法府の権威を正しく使って決着することが、自由な人々の自信を立証するのに役立つのである。
原判決を破棄する。
マックレイノルズ判事は判決に同意した。
ストーン判事は反対した。
当職は以下の判断が是認されるべきであると考える。
現在15歳と16歳の若者が、本法廷の判断によって、宗教的信念に反する学校儀式への参加を強制する法律に従うことを拒否したために、公立学校から退学処分を受け、すべての公教育の恩恵を拒否される責めがあるとされた。二人とその父親は市民であって、行動や言葉によってアメリカ政府への不忠誠を表明したことはない。彼らは、より高い神の命と心から信じるものに反しないかぎり、すべての法律に従う用意と意志がある。これらの信念が宗教的であり、真実のものであることは疑いないし、法の強制への従属を拒否したことも誠実で、真剣であったことは疑いない。これらの年齢の児童が宗教的信念をもち得ないということは、彼らの信仰の否定であると同時に、ほとんどの宗教的教えの否定でもあるだろう。
このように維持された法律は、アングロ−アメリカンの歴史のなかで独特のものである。これは、修正第一条で禁じられている、言論の自由の抑圧だけでもなければ、信仰の実践の自由を禁じるというだけでもない。これらはもちろん修正第一条で禁じられており、修正第十四条違反である。この法律によって、国家はこれらの児童に、当人たちの解釈では、彼らの深い宗教的信念に反する、彼らが抱いてはいない感情を表明することを強制した。そうした強制が、国家の公教育に対する適切な権限行使であるとして正当化され、支持される場合をのぞき、権利章典に保証された個人の自由、言論と信教の自由の違反で禁じられていることは否定できない。国家は親と対抗して、公立学校の教育を通じて、児童の心を教化するものであるから、政体およびこれの象徴である国旗への忠誠と献身を鼓吹しようとするにあたって、生徒にその信念に反し、信仰に違反することがらを是認するよう強制すると言われる。最後にマイナーズヴィル教育委員会およびその他は、画一化のほうが、憲法に定められた信教の自由の保護よりも国家のためになるという見解であり、裁判所は教育委員会の選択に自由に判断を下す立場ではないという。
かりに憲法の個人の自由の保証がつねに絶対的なものではないとしよう。政府は生き残る権利を有し、政府に委ねられた権限は、必ずしも権利憲章に明言された禁止条項によって無になるわけではない。政府は軍隊をつくり、戦争をするかもしれない。そのために、市民に軍務を強制し、信仰上の反対にもかかわらず軍事訓練を行うかもしれない。また、倫理を危うくし、公的安全、健康、秩序に違反するとされる信仰の実践を抑圧するかもしれない。だが、政府が教育手段として、また年少者をしつける手段として、彼らの宗教的良心に反することがらを公的に是認するよう強制できるとすることは、そうしたこととはまったく別のことで、当職は受け入れられない。
われわれには憲法に保証された市民的自由があり、言論の自由と信教の自由についてとくに明記されているという事実は、市民的自由の問題がなければ政府が通常行使する権限に、こうした自由は政府の活動から守られるべきであるという憲法の規定にしたがうために何らかの調整が行われなければならないことを意味する。国家は市民の教育を求め、支配する権限を有しているが、一般的法によって、親が公立学校では得られない宗教的教育を子供に施すために確保したいと考える適切な私立学校を排除して、公立学校への通学を強制することはできない。また、一般的な規制によって公道を管理する国家の権限は絶対ではなく、これに言論の自由は屈せず、言論の自由を抑圧する手段として利用してはならないし、一般法による街路の汚染に対する罰則権限を、思想伝達の手段としてのビラ配りの抑圧に使ってもならないと、当裁判所が判断したのは、ごく最近のことであった。
これらの事例では、政府の利害と憲法のもとの自由が競合する場合、また政府軒脳鋸牛が具体的な憲法の制約に触れる場合は、可能ならば、両者の本質を維持死得るような合理的調整が行われなければならず、そうした調整が合理的に可能かどうかを判断するのが裁判所の機能であると指摘されている。先にあげた事例で、裁判所は、主張されている免責を犯さなくても正当な国家目的を確保する手段は十分にある、あるいはその目的を他の手段で十分に確保できないことから生じる不利益は、言論あるいは信教の自由を超えるものではないと判断した。したがって、本件の強制が国家の統合に貢献すると信じるとしても、国家の統合の源泉である忠誠と愛国心を教える方法は、生徒に信じていないことを宣言するよう強制したり、宗教的信念に反する形式を命じたりする以外にも存在するのである。このような強制に訴えなくても、国家は教育義務を定めて、愛国心を目覚めさせるであろう市民的自由の保証を含め、わが国の歴史や政府の構造、組織を教えることを通じて教化することができる。ここで政府が、信念の表明を強制することのない代替策を求められたからといって、市民的自由の保護のために、当然に委ねられた利害や機能を奪われているということはできないと考える。
市民的自由の保証は、人間の心と精神の自由の保証であり、その表明の合理的な自由時会の保証である。これらは、個人が自分の意志で意見をもち、合理的に自由に表明し、思想伝達手段をもって教え、説得する個人の権利、そして国家の権利を前提としている。この保証された自由の本質は、少なくとも強制によって信仰を偽ることになる場合には、個人が何を考え、何を述べるか強制されない自由である。これらの保証が意義をもつためには、立法府の見解としては好ましい強制であっても、国家にも、またいかなる権威にも、信仰に反する信念あるいはその表明を強制されるべきではないと、考える。
歴史は、本件のように正義と公共の善という名で正当化されない国家の個人の自由への侵害はほとんどなかったこと、また政治的に無力な少数者に向けられなかったものは、これまたほとんどなかったことを教えている。憲法起草者たちは、彼らが創設した制度のもとでは、個人の自由に対する政府の規制には、憲法による保護よりも規制のほうが公共の利益のためだという立法府の判断の支援があるにちがいないことに気づいていた。憲法起草者たちが、政府の権限を制限し、心と精神の自由を、言論と信教の自由を明文化することで保証しようとしたとき、信仰に反する信念の表明を強制することが、信仰の自由の保護よりも公共の利益荷役だつのだと立法府が判断する余地を与える意図があった、あるいは残したと考えることはできない。憲法は憲法そのものとこれがつくりだす政府への忠誠の表明を喚起するかもしれないが、そうした表明を要求することもないし、忠誠の強制的な表明が、わが国の統治制度のなかで憲法による言論と信教の自由の保護を超える役割を果たすとも示唆していない。そうした忠誠の表明は自発的になされる場合には、国家の統合を推進するかもしれないが、児童が自分および親の信仰に反した表明を強制されることが、わが国の統合に重要な役割を果たすのであるから、教育委員会は憲法に保証された信教の自由にかかわりなく、強制を行えるというとすれば、それはまったく別の問題である。権利章典の言葉そのものが、権利章典よりも公共の福祉のほうが重要であるという立法府の宣言によって、そうした強制と憲法による保証とを両立させることをはっきりと排除していると思われる。 たとえこの見解が否定され、市民に信仰に反する感情の公的表明を強制すべきであるという立法府の決定の余地があると認めるとしても、「民主的プロセスの方途が開かれていて、妨げられていないかぎり」立法府の判断を審査すべきではないという意見には与し得ない。これは、憲法による多数の意志に対する少数者の自由の保護を放棄すること以外のなにものでもないと思われる。われわれは先に、孤立した少数者に対する偏見が、本来少数者保護を頼みとしている彼らの政治活動を制限しがちであるという状況で、立法府の判断に対する司法の検討の重要性を指摘した。これまでは、政治的影響がなくても、人種的、宗教的少数者の市民的自由を制限する法制を審査することをためらわないできた。本件で問題とされているのは、一般の人間行動の通常の道から大きく離れた信仰を誠実に抱いていて、したがってほとんどの人々に厳しい、あるいは懸念の目で見られがちである少数者である。こうした状況では、市民的自由を保護しようとすれば、好ましい信念の強制的表明によって信念と見解の画一化をはかろうとする立法府の努力には、慎重な審査がとくに必要である。この基準に照らして、その性格を理解していると否とにかかわらず強い信仰を持った児童を含めたこの小さなよるべない少数者がその宗教にとって不快な表現をしない権利が、学校の規律を維持するという国家の利益に押しつぶされるべきだと言うことはできない。
憲法は、あらゆる代償を払っても民主的プロセスを守るべきだというが人々の信念以上のものを表現している。憲法は心と精神の自由は守られるべきだと命じており、政府はそれなくしては自由な政府が存在し得ない正義と節度に則るならば、この命令に従わなければならない。この理由から、権利章典の保護の範囲内にある少数者の信教の自由を抑圧する法律は、少なくとも最近われわれが憲法に謳われた信教と人種的少数者の自由を侵害していると判断した法と同じく司法の審査の対象とされなければならない。
こうした審査にあたって、当職はこれらの子供たちの信仰を守るために学校の規律に実際的な調整を行うことから生じる不便が、憲法の保護に値すると考えられてきた信仰を強制的に侵害されることからの自由をを圧するほどの大きな問題を引き起こすと言うことはできないのである。
(翻訳 吉田利子)