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光井裕子
枠山範雄さんからの伝言
                                   
【1997年5月】  「お互い先は長いから無理せんとがんばっていこう」
 「時間的にも体力的にも、私が行くのは無理みたい。 どうしよう…」
 全国の独立組合の会議は年に数回あったが、ここのところ、枠山さんと私の2人で分担して参加するようにしていた。
 「今回はぼくが行くからだいじょうぶ。それより体調 はどう? 最近しんどそうに見える時があるけど。」
 「やっぱり通勤はこたえてる。朝の奈良線はすごく混 むし、京都駅に着いてからがまた一苦労。学校へつい たらもうくたくたやわ。」
 「通勤は距離だけやなくて内容も問題やな。ぼくも今 までで一番しんどい。嫌がらせされただけあるわ。お 互い先は長いから、無理せんとがんばっていこう。」
 そんな会話をして電話を切った。
 私と枠山さんは一年前の人事異動で、全く希望していない、遠方の学校にとばされていた。枠山さんには心臓病の持病があり、狭心症の発作を防ぐため、常時、ニトロを持ち歩いていた。実際学校で倒れて病院へ運ばれたこともある。
 私の方は、障害者だった父の介護を長年続けてきた母が体調を崩し、一家がもうぎりぎりのところにきていた。そんな各自の健康状態や家庭事情は、全く考慮されなかった。逆に弱みにつけ込んだ形での遠方への異動は、京都市教育委員会の酷い嫌がらせだった。 
 私も枠山さんも「君が代」斉唱の際の不起立を貫いており、週案の提出もしていなかった。そして上部団体を持たない独立組合のメンバーだった。

「体の内側からムチで叩かれてるようや」  
 それからしばらくして、枠山さんから電話があった。腰痛を起こして学校を休んでいるのだという。
 「春の運動会の練習で、綱引きの綱を出す時に、誰も手伝わへんのや、冷たい職場やで」と話した。 彼はめったに同僚について批判がましいことを口にする人ではなかったので、この話は、はっきりと印象に残っている。
 「腰痛がひどいとなると、会議の参加は無理かなあ…」と思っていると、それを見透かしたように、「会議があるまでに腰痛はおさまると思うから、だいじょうぶ」と、明るい声で告げられた。
 また何日かあって、留守録に「連絡してほしい」という枠山さんからのメッセージが入っていた。なんだかとても疲れている声だった。すぐに連絡をする。
 「悪いけど、今回の会議、出席は無理みたいや。」  「だいぶ痛いの?」  「腰だけやないねん。あちこちが痛い。体の内側から ムチで叩かれてるようや…」  
 この言葉を聞いた時、首の後ろあたりがザーッと冷たくなった。何か、ただごとではない変化が彼の体の中で起きているような気がしたのだ。         
  「大きな病院で検査をした方がいいよ。絶対そうして」 繰り返しすすめる。
 この電話の2〜3日後、枠山さんは市立病院に入院した。まもなくして聞かされた病名は「急性白血病」だった。

【1997年7月】 「元気になって退院するまで、何とかがんばってよ」
 7月に入って、枠山さんの容体は、入院直後のころよりも、少し落ち着いてきていた。お見舞いに行くと「お母さんの病気はどうなん?」とまずは自分のことより、相手のことを気にかける。私の母は6月の初めに心臓の発作で倒れ、集中治療室の中で、なんとか一命を取り止めている状態だった。
 「二学期から学校を休みことになると思う。もうすぐ夏休みやから、それまでなんとかがんばれるわ」と答えると、今度は「学校でつらい目にあってるのとちがう?」と聞かれた。「なんでわかるの?」と思わず聞き返してしまった。              
 私はそんなに疲れた顔をしているのか…、そんなにつらそうな表情をしているのか…、確かに疲れている。そして毎日がつらい。
 週案の提出拒否を明言した私に対して、校長は授業への入り込みをする。教室の掲示の仕方からこどもの忘れ物の数まで、ヘビのように執念深く点検する。土曜日、日曜日、父の介護と母の看護にあけくれ、月曜日からは、学校での闘いが始まる。私の疲労は限界に達していた。下の血圧がいつも110を越えていて、めまいと頭痛が続いていた。
 こんな状態の私に校長は「あんたより、ぼくはもっと遠いところから通勤している。」と言い放ったのだ。・「それはもともとの自宅が遠いのだ。京都市外から通っていて、それでも乗換え無しのJR一本で来れるじゃないの」と、疲れきっていた私は心の中で反撃するしかなかった。
 「2学期からは無理でも3学期か、来年の春には絶対 職場復帰するから、それまで、元気になって退院する まで、なんとかがんばってよ。」 
グチを聞いてもらって、はげまされて、私は病院を後にしたのだった。

【1997年12月】  「あきらめてはいけない」
 私は2学期から看護休暇に入った。母の8時間にも及ぶ手術が成功して、ホッとしたのもつかの間、父が転倒して足を骨折。さらには入院先の病院でMRSA肺炎に感染した。24時間体制での看護が始まる。父は個室に移され、面会謝絶の札がかけられる。両親2人ともが重い病気で入院するという思いがけない事態になって、私の心は沈んでいた。そんな時、友達から電話をもらうと本当にうれしい。枠山さんは自分自身も重い病にありながら、電話を何度もかけてくれた。
 「いろいろ大変みたいやなあ。困ったことがあったら組合のだれかに相談すればいい」と気遣ってくれた。
 10月の終わりに父が亡くなった。母のために看護休暇をとって故郷に帰った私にとっては、思いがけない父の死だった。母は障害者一級に認定され、ケアハウスに入所することになった。私は3学期から復職を決めていた。   
 12月、枠山さんからの電話。  「いよいよ3学期から復帰やね。いろんなことがあっ たみたいやなあ。京都に帰ってきたらごくろうさん会 をしてあげたいなあ。元気やったらぼくが発起人にな るけど、今は動けへんからMさんに頼んどいたわ。」 うれしかった。ほんとうに。
 「ところで、異動希望どうするの?」
 「もうあきらめたわ。」  
 「お母さんの病気が治らないのに、あんな遠い学校に、 あと何年も通い続けるなんて無理ちがう?」
 「だれに話しても、私や枠山さんの異動はむつかしい っていうよ。報復人事なんやから。異動希望を出した ら、よけい遠方に行かされる可能性があるって。」
 「確かに報復人事や。でも、今がチャンスかも知れな い。」
 「チャンス?」  「あなたの家庭事情は前より苦しくなっている。それ と、ぼくがこんな病気になった。だから、あの市教委 でも、これ以上あこぎなことは、せめて今はしにくい はずや。」
 「枠山さんが異動できるならともかく、私だけにチャ ンスなんて。」  
「何いってるの、あなたまで倒れてどうするの。あき らめてはいけない。ぼくは異動希望は出すべきだと思 う。それと、ひとりで抱え込まずにいろんな人に相談 してみたら?」 
 貴重なアドバイスだった。
 枠山さんや私、あと数人の教員が教育委員会に呼び出され「指導」を受けたことがあった。「君が代」や「日の丸」の闘いが京都の教育現場では、実質ほとんど終息していたころ、数名の教員だけが、「君が代」斉唱の際、反対の意思を表明して不起立を続けていた。  
 私一人を数人が取り囲んであちこちから罵声を浴びせかける。        
 「どうして不起立なんかしたのだ!」
 「部落差別と対極にある天皇をたたえる歌を…」と言 いかけたとたん、市教委の役人は私の話を制止して大声でどなった。
 「部落のことなんか聞いていない! どうして上司の 指示に従えないのだ!」
 「いったい何年、学校につとめているんだ!」
 「ここは公立学校なんや、勝手なことをするなら私学 に行ったら!」
 「今、強い指導を受けているということがわかってい るのか!」
 侮辱され、罵倒されても、あの時はひるまなかった。逆に怒りをエネルギーにして前に進むことができた。「あきらてはいけない」のだ。枠山さんのいう通りだ。
 新しい春がめぐってきたが、枠山さんの職場復帰はまだかなわなかった。一年前より元気になって、少しだけ強くなって、私は新しい学校に転勤した。














【2000年9月】 「悔しいけれど」

 夏休みの終わりころにお見舞いに行った友人から、枠山さんが私に会いたいと話していたことを聞く。この夏休み、私はまだお見舞いに行けていなかった。
 「日の丸・君が代」反対の活動を、地域の中で展開しているYさんも誘って、2人で病院へ行く。枠山さんとYさんとは以前から知り合いだが、その他にも、元気になって退院したら、枠山さんには会ってもらいたい人がたくさんいる。みんな苦労人だが、底抜けに明るく、しぶとく生きている。権力の傲慢さには、いつもまっ正面から対峙している。枠山さんとはきっと気が合うことだろう。早く良くなって帰ってきてほしい。
 そんなことを考えながら病室へ入ると、枠山さんはベッドで横になっていた。なんだか顔色が悪い。紫っぽくて、顔全体が妙にむくんでいる。                
 「具合はどう?」  声をかけると、すぐに起き上がった。
 「下痢が続いてものが食べられへんけど、体の中で闘いをしているからなんや。この山を越えたらよくなっていくと思う」と彼は言った。
 「Mさんに頼みたい事があるんやけど、、早期退職制度のことを調べてくれへんか。」
 「退職」という言葉を枠山さんの口から聞いたのは、初めてだった。複雑な気持ちで、私は返事がすぐに出来なかった。
 「もうおそらく現場には戻れないと思う。自分からやめるのは悔しいけど、やめなさいといわれてやめるのはもっと嫌だ。今年の募集とか、締切りとかを調べて、何かわかったらすぐに知らせてほしい。こんなことを考えるのは、悔しいけれど…。」
 本当に、悔しそうに言った。
 今度はYさんの方を見て、訴えるように、強い口調で言った。
 「市教委は絶対許せへん。」
 Yさんは、「早く体を治して、またいっしょにやろう。待ってるから。」と言った。 
 この後枠山さんは、「PHSを持っているから時々電話してほしい。午後6時ころやと必ず電話に出られるから。」と言って、Yさんと私に電話番号を教えてくれた。
 「悔しい」と言った枠山さんの気持ちは私の心の奥にジンジンと響いた。

【2000年9月30日】 「正しいことは、いつか必ず証明される。 だから、やめずにがんばって」
 枠山さんの夢を見た。いっしょにお酒を飲んで、笑って話している夢だった。    
 思い返せば、枠山さんとは苦しさや辛さだけを共有してきたのではない。初めて韓国に旅行した時、枠山さんもいっしょだった。韓国の焼酎(眞露)が気にいって毎晩飲んでいた。
 夏、いっしょに北海道に行った。冬はスキーを教えてもらった。
 春は、毎年お花見をして、鴨川の河原で、何時間もかけてお酒をたくさん飲んだ。楽しい思い出がいっぱいあった。どうして今まで忘れていたのだろう。どうして今、突然思い出したのだろう。
 「PHSに何回かけてもつながりません。」という留守録がYさんから入っていた。 
 枠山さんの容体が思わしくないことは、他からも伝えられていた。「行かなければならない」と思った。どうしても行かなければならない、できるだけ早く。   
 半ば強引に、同じユニオンのMさんを誘った。Mさん は疲れて眠っていたが、奥さんが気をきかせて起こしてくれた。                    
 「どうしても明日行こう。」
 「わかった。そうしよう。」           
 心配して、毎日のように電話をもらっていたYさんも誘う。

 9月30日土曜日午後2時30分 京都大学病院。  3人で待ち合わせをする。
 枠山さんは個室に移っていた。口に酸素マスクをあてていた。とても辛そうだった。こんな苦しそうな姿を見るのは初めてだった。悲しくて涙が出そうになった。 
 「泣いてはいけない」と自分に言い聞かせた。こんなに苦しい状態で、私たちに会うということは、伝えたいことがあるのかもしれない。落ち着いてしっかり聞こう。
 枠山さんは10月に行われるユニオンの全国会議の件を気にしていた。
苦しい息の中、とぎれとぎれに話す。 
 「必ず、複数で出席してほしい。」
 「わかった。必ず何人かで行きます。枠山さんの代わ りにちゃんと行く。」
 「だめだめ、ぼくの代わりではだめなんや、もう(病 院から)出られないかも…、ぼくの代わりじゃなくて …、ひとりひとりが…、(後、不明瞭)」
 「みんなに伝えることある?」  
 枠山さんは、かすれた声を、ひときわ、ふり絞るようにして言った。
 「正しいことは、いずれ、証明される。だから、やめ ずにがんばって…」 
 枠山さんからの、「伝言」だと感じた。とても大切な「伝言」  
 「おれは、ずっと待ってるからな」 Yさんが静かに、力強く言った。

2000年10月3日朝、死去。  
 また、歩きはじめなければならない。悲しみは癒されないけれど、立ち止まっていてはいけない。
 枠山さんは、前向きな人だった。いつも希望を抱いて、絶望せずに、努力していた。だから、私も、もう一度歩きはじめよう。             
 私が歩みを止めない限り、枠山さんと再会できる。たくさんの思い出の中で、何度も会える。つらくてたまらないときは、あの「伝言」を思い出して、支えにするだろう。だから、「さよなら」はいわない。絶対に言いたくない。今はただ、「ありがとう」と、心から言いたい。
 枠山さん、勇気とやさしさをありがとう。あきらめずに、歩いて行きます。
 出合いを大切にして、つながりを求めて。