[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

『資料「君が代」訴訟』(明石書店)  あとがき 

 

人間の良心を引き裂こうとする者への怒り  
          ----市民運動としての「君が代」訴訟を振り返って      


                  北上田 毅(「君が代」訴訟をすすめる会 事務局長)      


 「君が代」訴訟は、「君が代」強制と精神的自由の問題を問うた全国で初めての憲法訴訟であった。
 提訴以来一二年、京都地裁、大阪高裁では、高石邦男元文部次官をはじめ、飯沼二郎さん、井上清さん、パクシル(朴実)さん、そして枠山さん、小池さんら小学校の教員二名、また当時の教育委員長、校長会会長、教育委員会の役人らの証人調べをし、法廷で「君が代」強制の実態を明らかにした。またその憲法論争を繰り広げることもできた。西原博史さんの良心の自由に関する緻密な鑑定書をはじめ、鶴見俊輔さん、師岡祐行さん、籠谷次郎さん、山部芳秀さん、ダグラス・ラミスさんらの意見書、また、岡部伊都子さん、尹昌烈さんをはじめとした多くの市民たちの陳述書、そして困難な状況にもかかわらず九名の教師たちから出された陳述書などが、この訴訟の内容を豊かに彩っている。こうして出された一審の京都地裁判決は、まだまだ不充分なものではあったが、「君が代」とその強制の問題にまで一歩踏み込んだ初めての司法判断としての意義を持つ。
 大阪高裁の控訴審では、バーネット事件だけではなく、アメリカにおける国旗敬礼や忠誠宣誓などの精神的自由をめぐる判例の紹介に全力をあげた。引用した判例は四〇にも及ぶ。そのうち一六の判例を全て翻訳し、書証として裁判所に提出した。
 しかし、高裁、最高裁判決は、住民訴訟の要件論だけで我々の訴えを棄却し、「君が代」とその強制の問題について、全く触れないまま終わってしまった。多くの方々のご支援をいただき、全国の注目を集めた訴訟であっただけに、「君が代」訴訟を最初に提起し、この一三年間、「『君が代』訴訟をすすめる会」の事務局を担当してきた者として、やはりその責任を痛感している。
 高裁、最高裁の判決文に我々の想いを反映させることが出来なかったのは残念だが、今、我々の手元にはこの一三年間の運動で築き上げられた膨大な記録や資料が残っている。「君が代」強制反対運動は今後も絶えることなく続く。最近の法制化論争への対処も重要である。多くの方々の協力を得て作りあげた裁判闘争の成果を散逸させることなく、今後の運動に生かされるようにまとめることは、我々に課せられた社会的責努であろう。そうした想いからまとめあげたのが本書である。
 「君が代」訴訟の内容や意義等については、本書の解説論文等で明らかにされているので、ここでは、「あとがき」というかなり自由な場を与えられたことに甘えさせてもらい、この訴訟をやや個人的感想を含めて振り返ってみたい。


市民運動としての「君が代」訴訟

 この「君が代」訴訟は、君が代強制と精神的自由の問題、天皇制の問題を問うた憲法訴訟であったが、最大の特徴は終始一貫してあくまでも市民運動として取り組まれた裁判闘争であったということにある。この本では裁判所に提出したものだけを掲載しているのでその点が必ずしも明瞭ではないが、我々の運動は決して裁判所の中だけで展開されたのではない。
 「君が代」訴訟は、その発端から、保護者・市民たちの運動の盛り上がりから生まれてきた。
 一九八六年の四月だった。長男の通う小学校の入学式で「君が代」が強行されそうだという知らせに、知り合いの親たちと地域で署名を集め、校長に申し入れを行ったのが、私の「君が代」問題との最初のかかわりだった。市教委の言い分をそのまま繰り返すだけの校長との話し合いはむなしかった。校長らは顔を引きつらせ、あるいは能面のように、与えられた公式見解を繰り返すだけだった。そんな交渉がはがゆく、私はこの問題をとことん追求していくためにも、なんとか裁判所で争うことはできないかと考えていた。それこそ、「責任者を呼べ!」という思いだったのである。(この訴訟の中で、当時の「君が代」強制の直接的な責任者であった高石邦男元文部次官を法廷に呼び出すことができた。まさに、市民の怒りは、「責任者」を引きずりだしたのである。)
 調べてみると、一九八〇年に福岡のある小学校の保護者が、卒業式での「君が代」斉唱実施計画に対して執行停止の申し立てをしたことがあった。しかし、この訴訟はいっさい実質審理にも入らずにすぐに却下されており、他には「君が代」が司法の場で争われたことはない。「君が代」についての実質的な論争を裁判所でできないだろうかと思案する毎日が続いた。ただ、住民訴訟しかないだろうとはその頃から直感的に考えていた。
 この年、京都市教委による突然の「君が代」強制に、市内の多くの学校で、同じような保護者・市民たちの運動が盛り上がっていた。しかし市教委はいっさい保護者・市民との話し合いにも応じようとはせず、各校区での運動をお互いに繋げることもなかなか出来なかった。もし、住民訴訟ということになれば、市教委を論争の場に引きずり出し、地域での運動を結びつける役割も果たすにちがいないと思えたのである。
 そんな五月のある日、ふと読んだ新聞で、京都市教委が「君が代」実施のために、市内の全小・中学校に「君が代」を録音したテープを配付していたということを知った。教師たちの反対が強く、ピアノをひく者がいないため、校長や教頭だけでもカセットデッキを持ち込んで「君が代」を実施することができるように配付したものである。このテープを使って、多くの反対を押し切って式当日に「君が代」が強行された。言いかえれば、このテープがなかったら、あれだけ強引な「君が代」の強制も不可能だったのである。
 これだと思った。テープの購入、配付は公金の支出を伴っているはずだから住民訴訟の対象になると考えたのが「君が代」訴訟の発端である。住民訴訟だから原告適格が問われることもない、必ず「君が代」についての論争に入れるにちがいないと思えた。
 当時、私は、京都北山の自然を守るための残土投棄反対運動の住民訴訟で、京都地裁、大阪高裁と勝訴したところであった。この上告審で、最高裁が住民訴訟の枠を狭めて逆転判決を出したのは一九九〇年である。この住民勝訴の京都地裁判決を出した井関裁判長は、偶然にも今回の「君が代」訴訟で住民敗訴の高裁判決を出している。この二つの判決にはひどい矛盾があるのだが、その点については本書、田中真人さんの「京都『君が代』訴訟とは」参照。
 このように、この当時はまだ住民訴訟の要件がそう狭められていなかったのである。

 短い期間だったが、「君が代」訴訟の訴えは、あっと言う間に京都市民の間に広がった。市民なら誰でも原告になれるのが住民訴訟の最大の利点である。前段となる住民監査請求には一、一一七名が名を連ね、住民訴訟の原告も二六七名に及んだ。人数だけではない、原告の構成も多岐にわたっている。地域で運動を続けていた保護者・市民・そして子供たちだけではなく、困難な状況にもかかわらず、小・中学校の教員らも多数原告として参加してくれた。また、在日朝鮮人、沖縄出身者、そして部落解放運動をになっている人たちも、「君が代」問題を自らの課題として訴訟に参加してきた。障害児の親、音楽家などもいる。また、京都の学者・文化人らの多数の参加も、運動の広がりを支えてくれた。しかも、代表の飯沼二郎さんだけではなく、井上清さん、鶴見俊輔さん、日高六郎さん、和田洋一さん、師岡祐行さんらも、原告として参加していただいただけでなく、常にそれぞれの立場で運動の最先頭にも立っていただいた。
 こうした市民運動としての「君が代」訴訟の経過は、本書、田中真人さんの「京都『君が代』訴訟とは」や、年表などに詳しい。手元の記録を集計してみると、会が主催した市民集会や総会、講演会などへの参加者数は、述べにして実に四、五〇〇名にもなっている。また、計三五回の公判傍聴、公判後集会への参加者数も一、四〇〇名を超えている。このように多くの人々の参加に支えられて我々の運動があった。
 毎年の市教委との交渉、地域でのビラ配布や電話による「君が代」強制反対ホットライン、また、三回の「君が代・日の丸」強制反対全国交流集会、七年間続けた「おめでとう卒業・入学・進級 親子の集い」、京都でベストセラーを続けた『いけん君が代』や『またいけん君が代』『「君が代」白書』や各種裁判資料の出版、民族派右翼との公開討論会、そしてドイツの国歌に反対する市民運動グループとの交流など、本当に多様な運動をすすめてきたものだと思う。各地の運動との交流や講演活動なども、北海道から沖縄までの全国にわたった。さらに、市教委監視団による京都市教育委員会の毎回の傍聴、職員会議録の情報公開請求、西暦卒業証書問題など、「君が代」訴訟の取り組みの中から生まれてきた運動も多い。
 法廷での戦いにももちろん全力を尽くしたが、こうした市民運動の側面にこそ、「君が代」訴訟の意味があったと言えよう。

「君が代」の強制とは何か?
 
 このように「君が代」訴訟はあくまでも市民運動としての裁判闘争であった。従って運動の中でも我々が最も気を使ったのは、「君が代」強制に反対する我々の想いを、どこか難しい理論の中から展開するのではなく、何よりも自分たちが実感として感じたところをそのまま生かしたいということであった。
 たとえば、ある教師は、「君が代」が強行された卒業式に参加した体験を次のように語っている。
 「合意のないままにプログラムの中に『君が代』が入れられた。向こうが勝手にやっていることだと思って も、いざ式が始まってみると、我とわが子らに『君が代』は襲いかかる。開式を教頭氏が宣言する。重い 沈黙。のっけから、『君が代斉唱』。そして、ご持参のラジカセのスイッチを入れ、『君が代』が流れ出す。
  分会の中では、結局不起立はしない、ということになっていたので仕方なく立った。自分の送りだす子 どもたちの前で、今までになかったことが行われる。体が震えてくる。来賓席からは、声高に歌う声も聞 こえてきた。『好きな人は歌えばいいさ』と思ってきたものの、これを聞かされている間は屈辱感とやり切 れなさで胸があふれ、そして自分で自分にびっくりしたのだけれど、胸が震えた。自分は一体どうされて いくのだろう。そして子どもたちはどこへ連れていかれるのだろう。
  たった数十秒のあいだの『我慢』だったが、こんなに、実際、辛いとは思わなかった。」
                         (甲一号証 「君が代」訴訟をすすめる会編『「君が代」白書』)

  こうした屈辱の想いは、式に参加している親や子どもたちにとっても同じだ。「『君が代』斉唱の中に立つ 入学式典の冥(くら)むひととき」(島田多美子 労働旬報社『平和万葉集』)という感覚は、「君が代」が強行される卒業式・入学式に参加を強いられた親たちの共通の実感でもある。証人として法廷に立った朴実さんも、「(君が代が強行された時、私と娘は退場したのですが、戻ってからも)私たち親子三人は悔しくて泣きました。…娘は式の間中、肩を震わせて泣いていました。それをただ後ろから眺めているだけの私の胸は張り裂けそうでした。」(「朴実さん陳述書」 【資料19】)と、その想いを述べている。また、「君が代」訴訟が始まった頃、中学三年生の子どもから我々に、「君が代・日の丸」つきの卒業式に参加を強いられた時の「屈辱」の思いを記した手紙が寄せられてもいる。(「控訴審最終準備書面」【資料6】第一部参照)                    
 このように、教師も、親も、そして子どもたちも、「君が代」が強行された式典に参加を強いられ、絶えがたい「屈辱」の中に傷ついてきた。
 そして、京都市教委による、「君が代」の強制に反対する教師たちへの、それこそ人間の良心を引き裂くような卑劣な嫌がらせは特に許せない。ある教員は「君が代」に不起立を続けていたが、市教委に呼び出されて、「どうして不起立なんかしたんだ! 校長の言うことを何故聞かないのか? 上司の言うことを聞かないのなら、(公立学校は辞めて)どこかの私立学校か塾へでも行け!」というようなひどい恫喝を受けている。(「高鍬多恵子教諭陳述書」【資料40】) しかもこんなヤクザのような恫喝をしているのは、まだ、三〇代も前半の若い市教委の役人であるというから驚く。それが自分よりもずっと年長の教員に対してこのような恫喝をしているのだ。そんな彼らが、今、恥ずかしげもなく、「心の教育」を説いている。
 同じようなことは、「君が代」に不起立を続ける他の教員たちからもいくつも訴えられている。再三の呼び出し、そして「始末書」の強要。多くの教員たちが「君が代」の強制によってズタズタに引き裂かれ傷ついてきた。このような話は、京都だけではない。九九年二月には、広島県教委から「職務命令を無視するなら辞表、降格処分覚悟でやれ」と圧力をかけられていた校長先生が自殺にまで追いこまれている。
 このように「踏絵」を使い、人間の良心を引き裂こうとする者たちの卑劣さ。その傲慢で、それこそ寒々とした感情の麻痺には驚く他ない。(野田正彰『戦争と罪責』岩波書店)
 それは「人生は坦々と順応していくしかない。理想を言ってもどうなるものではない。」(同書 一八七頁)と、権威と秩序への服従を強い、異議を唱える者を排除して、ともかく集団への順応を強いるものだ。まさに、このような社会こそ、戦前から続く日本社会の基本的な構造ではなかったか? これこそ「君が代」強制の意図するものであろう。
 この点については、控訴審で提出したダグラス・ラミスさんの意見書も、「『私は抵抗しません。問題を起こしません。だから私をいじめないで下さい』というのが『君が代』なのです。」と、そのことを分かり易く示している。(「ダグラス・ラミス氏意見書」【資料27】)
 このような、集団への順応、権威と秩序への服従を絶えず強制する強張った社会の中で、我々はどのように生きていけばよいのだろうか? 個を尊重し、異質なものを排除しない、柔軟で多様性に満ちた社会、そして人々の豊かな関係性はどうすれば実現するのだろう?
 一三年間の「君が代」訴訟の中で我々が求めようとしたのは、結局、このような問いに対する手探りの模索だったのではないかと思う。これからも、裁判という場は離れるが、我々の思考錯誤は続く。

一三年間の裁判闘争を終えて
 
 この本には、一三年間の裁判闘争の記録を集めたが、まだまだ多くの資料が紙面の都合で収録できなかった。特に、飯沼二郎さん、井上清さん、朴実さん、枠山範雄さん、小池晴夫さんらの証言調書、また、籠谷次郎さんの意見書や、加藤敦美さんの陳述書、さらに控訴審で我々が全力をあげた、アメリカ連邦最高裁の精神的自由をめぐる判決文などを収録できなかったのは残念でならない。「刊行物一覧」にもあるように、会として自費出版した資料も多いので是非参考にしていただきたい。 

 この一三年間、本当にたくさんの方々のお世話になった。本来なら最後にお名前を一人ずつあげてお礼をさせていただかなければならないのだが、こんなにも多くの方々のお世話になってしまうと、それもできず、お許し願いたい。
 ただ、「『君が代』訴訟をすすめる会」内部のことで恐縮するのだが、代表の飯沼二郎先生への謝辞だけはどうしても述べさせていただきたい。先生は今年、すでに八一才になられたが、この一三年間、常に最先頭に立ってこの運動を引っ張っていただいた。自宅前に街宣車を停められ、「非国民、飯沼は日本から出ていけ!」とがなりたてられるなど、右翼からの嫌がらせはいつも飯沼先生に集中したが、全く動じられることもなかった。会議だけではなく、会報の発送などの事務作業などにもよく出てこられ、黙々と作業をされるのにはいつも頭が下がった。この真摯な、そして凛とした飯沼先生がおられなければ、「君が代」訴訟の運動はなかった。
 そして弁護士さんたちにも心からのお礼をさせていただきたい。小野誠之さん、田畑祐晃さん、井上二郎さん、堀和幸さん、国弘正樹さん、小田幸児さん、青木苗子さん、上原康夫さん、中島光考さん、中田政義さん。これらの弁護士さんたちは、ほとんど手弁当でこの訴訟にかけつけていただいた。丸木位里さん、俊さんからいただいた色紙をお礼できただけである。
 一三年間という長い運動であっただけに、その中で我々はかけがえのない方々も失ってきた。和田洋一さんは、当時、大阪・京都靖国訴訟の原告団長をされていたが、私たちの「君が代」訴訟にも積極的に参加していただいた。集会でもよく発言されていたが、あの訥々とした語り口をいつも懐かしく思い出す。
 また、事務局の中心メンバーであった長島貞樹さんも今はない。運動を初めた頃、我々は臨時事務局会議と称してよく居酒屋で今後の運動を話しあっていたのだが、彼の自由な発想は、すすめる会の運動の硬直化を防いでくれたと言えよう。(彼の「君が代」訴訟への想いは、「君が代」訴訟をすすめる会編『またいけん君が代』(阿吽社)などに収録されている。)
 そして京都市監査委員として、本件「君が代」テープ配付は違憲・違法であるという意見を堂々と公表された故梅林信一氏にも、一度、直接お会いしてゆっくりとお話しをお伺いしたかったと残念でならない。まさに信念の人であった。

 最後になったが、この膨大な資料集の出版に快く同意いただいた緑風出版の高須次郎氏、そして諸作業を担当していただいた吉田朋子氏に感謝の気持を表したい。