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 「君が代」訴訟をすすめる会の中心メンバ−だった枠山範雄さん(小学校教員)が、昨秋、10月3日に白血病で亡くなりました。享年52歳。あまりに若い死が残念でなりません。

■枠山さんは、1997年5月に、「急性リンパ性白血病」を発病しました。すぐに京都市立病院に入院。長く抗ガン剤治療の副作用に苦しみながらも頑張り続け、翌年7月には京都大学病院で骨髄移植を受けることができました。一時、小康状態となって退院しますが、99年4月、12月と白血病の再発を繰り返し、あれほど願っていた教壇への復帰は、ついにかないませんでした。
 退院しても、感染の恐れから人込みに出ることや、日光にあたることは禁止されていましたが、それでも、・「君が代」強制反対市民集会などには、頭にバンダナを巻いた姿を現してくれて、皆ほっとしたものでした。
 昨年7月にはリンパ球輸血を行いましたが、しばらくして拒絶反応やインターフェロンの副作用に苦しみ、8月末からは食事がとれなくなって点滴生活に入ってしまいました。9月に入って病状はさらに悪化、そして9月19日にまたも再発を宣言されてしまいます。
 9月の末に個室に移された後も、頑張り続けましたが、とうとう10月3日の朝、力尽きてしまったのです

■私が1986年の春、「君が代」強制は絶対に許せないと、「君が代」訴訟を思いついた時、真っ先に相談したのが枠山さんでした。話を聞いていた彼の顔が一瞬輝き、・「面白い、やろう!」と言ってくれた時のことが、まるで昨日のように思いだされます。
 それ以来、14年。彼は「君が代」訴訟をすすめる会を中心になって担ってきました。特に7年間続いた 「親子の集い」は、彼の丹精込めた「作品」と言えるものでしたし、ベ平連運動以来の長い市民運動で鍛えられた彼の熱のこもった演説は、皆を奮い立たせてくれたものです。彼なくしては「君が代」訴訟をここまで続けることは不可能でした。
 訴訟では、監査委員会での口答陳述だけではなく、京都地裁の法廷にも堂々と出廷し、市教委の「君が代」強制の実態をつぶさに証言してくれました。老練な市教委側弁護士の嫌みたっぷりの反対尋問も、軽妙に受け流した彼の落ち着きには感心したものです。民族派右翼との公開討論会(毎日新聞主催)での彼も見事でした。
 彼は、裁判の場だけではなく、学校現場でもとことん頑張っていました。卒業式・入学式では、「君が代」の強制に抗議して最後まで不起立を貫き、市教委の再三の恫喝にも屈しませんでした。また週案の提出強要への抗議、卒業証書の西暦記載問題、「君が代・日の丸」に関する職員会議録の情報公開請求など、彼は全ての問題にいつも真摯にたち向かってきました。
 彼は死の直前まで、学校現場の状況を常に気にかけ、「君が代」強制への怒りと、すすめる会の今後の運動について語り続けていました。「正しいことは、いつか必ず証明される。だから、止めずに頑張ってほしい」というのが、彼の最後の言葉でした。闘病日記の最後も、今後のすすめる会の運動についての発言で終わっています。

■こんな逞しい彼でしたが、積み重なったストレスが、しだいに免疫力を低下させ、ついに白血病を発病させたとしか思えません。偲ぶ会で、「市教委に殺された」と言う声がありましたが、これは多くの人の実感でしょう。
 彼は、長い闘病生活の間も、人前では常に冷静で、決して弱音をはきませんでした。ガンや白血病という恐ろしい病気も、家族や友人たちとの間に受容のための時間を持つことができたり、お互いの人生を改めて考えなおす時間を与えてくれるのだということを、彼は教えてくれました。最後の瞬間まで、彼らしく生き抜いたその姿は、我々の脳裏から決して消えることはないでしょう。
 ただ、2人のお嬢さんたちは、まだ中学生と小学生、なんとかもう数年だけは生きたいと、やはりそれだけは心残りで無念だったにちがいありません。
 3年5ケ月の辛い闘病生活、本当に疲れはてたことでしょう。ご苦労さまでした、ゆっくり休んで下さいという他ありません。心からご冥福を祈ります。
北上田 毅
追悼・枠山範雄さん