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 三 ・ 教 育 に お け る 国 家 の 権 限 と、

            親・ 子 ど も の 権 利 に 関 す る 判 例


1 公教育を受ける「義務」の免除についての判例

*Meyer v. Nebraska
 …連邦最高裁 一九二三年  262 U.S. 390
 ネブラスカ州は、何人も英語以外の言語で授業してはならないとの法律を定めていたが、私立学校の一教師がドイツ語の講読を行ったために起訴された。しかし連邦最高裁はこの州法を違憲とした。
 マクレイノルズ裁判官は、「州は『均質な人間を育成するため』に学校を運営するという理念を我が国は否認した」と述べている。彼が主張した理念はその後、最高裁判所で何度も繰り返されており、ティンカー事件連邦最高裁判決(後述)でも引用されている。
  「個人は尊重されなければならない一定の基本的な権利を持っている。連邦憲法の保護は全ての者に及ぶの  であって、舌の上に英語をのせて生まれてきた者と同様に、英語以外の言語を話す者にも及ぶのである。」  「教師が職業として教える権利、および両親がその教師に子どもを教えてもらう権利は修正条項の自由権の  範囲内にある。」
  「適法手続条項にいう『自由』には、『単に身体的拘束を受けない自由』にとどまるのではなく、契約を結  び、普通の職業に従事し、有益な知識を身につけ、結婚して家庭を持ち、子どもを育て、自己の良心の命ず  るところに従って神を敬う…個人の権利も含まれている。」

*Pierce判決
 …連邦最高裁 一九二三年  218 U.S. 510(1923)
 オレゴン州では、一九二三年に義務教育法を改正し、八才から一六才の全児童は公立学校に就学しなければならないとした。二つの学校法人がこの州法の事前の禁止命令を求め、連邦最高裁は修正一四条の保障する自由権に基づいて、この州法は「親の教育の自由」を侵すものとして違憲であるとした。  
  「ネブラスカ判決の原則によれば、一九二三年の法律は…自らの子どもの扶養と教育を管理する親権者の自  由権に不当に干渉するものと思われる。…基本的な自由権の理論では、公立学校だけから授業を受けること  を強制することによって子どもを画一化しようとする州の側のどんな一般的権限もいっさい排除される。」                                   (『家永教科書裁判 第一部 準備書面篇3』 P520)
  Nebraska 、Pierceの両判決は「自由の本質、社会的な諸公益組織の各々の権利、それに民衆の信条や意見を均質化する政府の権限の限界に関する憲法理論の、恒久的で豊かな源」(文献2 片山 P39 )と言われている。また「連邦最高裁の諸判決の基本原則は、州とは全く別のドラムを叩く者の音楽に心をとめる個人や団体の機会を全く排除してしまうことによって、『子どもを規格化』(Pierce判決)したり、『均質的な人民を育成』(Meyer 判決)したりする権限は国家(州)にはないということであった。子どもは『単なる国家の創造物』(Pierce判決)とみなされてはならない」とされたのである。(Tribe 文献2 片山 P39 ) (文献10 蟻川 P47 ) この判決は「子どもに対する第一義的な権威を親がもち、子どもの養育、教育に果たす親の優位性は連邦最高裁から承認された」ものと言われている。(片山等「アメリカ連邦最高裁判所における子とせもの人権の概況」 『自由と正義』38巻6号 )

*In re Gault
…連邦最高裁 一九六七年   387 U.S. 1
 ティンカー判決と共に、子どもの「自己決定」についての画期的な判決。
  「修正第一条の適正手続条項および Bill of Rights が成人専用の規定でないことは(先例上)疑問の余地  なく明らかである。…大人なら持っている権利を、国がパレンス・パトリエ(親代わり)としての立場から  子どもに対しては否定することができる理由として、子どもは大人とちがって『自由への権利でなく保護を  受ける権利』を持つからだと説かれてきた。…しかし我々の憲法の下では、少年であることはカンガルー裁  判(デュープロセスを欠く弛緩した審理)を正当化するものではない。」
                              (森田明「学校と裁判所」『ジュリスト』No.1037 94.1.1-15 )
*Wisconsin v. Yoder  
 …一九七三年 連邦最高裁 406 U.S. 205 
 ウィスコンシン州では一六才までの子どもの通学義務を定めていた。これに対して、キリスト教アマン派の信徒は、近代文明を否定し、子どもに第九学年以上の学校教育を受けさせるのは、親の信教の自由・わが子に対する宗教教育の自由を侵害するとして、子どもを通学させず、刑罰を受けた。最高裁は、親のわが子に対する宗教教育の自由の見地から、通学義務の免除を認めた。                (文献2 片山  P64)  「たとえ普通教育を義務づける州の側の利益がどんなに高く評価されようとも、それが本件で問題になって  いる信教の自由や、それと相伴う親の利益のような、憲法上の基本権と対抗関係に立つ場合には、なんらか  の利益衡量手続を経ないわけにはいかない。…州は、信教の自由の侵害にならないよう義務教育制をとるか、  あるいは信教の自由によって保障されるべき利益を凌駕するほどの強力な利益があることを立証しなければ  ならない。」
  「…要するに、州は被上告人に義務履行を強制する、やむを得ない利益を有していない。」
                                       
 また、この判決の後にも、子どもを学校に通学させず、在宅のまま親が教育にあたっていた事例を認めている判例( Commonwealth v. Roberts 1893)などもあり、「学校」とは何か、国家による教育と親による教育の自由などの問題を考える上で興味深い。


2 学校のカリキュラムに関する判例
「アメリカでは、憲法および州法に規定されている場合を除き、教育委員会は学校のカリキュラムにもりこまれる教科を定めることに、きわめて強い裁量権を持つ。しかし、親が自分の子どもの教育を指定する権利と、州が子どもの受けるべき教育内容を規定する権限との間は、争いがおこる場合が多い。その一例は、必修教科を受けるべきか否かの問題であり、そこでは親の裁量権と、公教育における公権力の規制の関係が論議される。」
                                 (星野安三郎・鈴木安蔵『学問の自由と教育権』成文堂 P289)
*Zorach v. Clauson
 …連邦最高裁 一九五二年判決 343 U.S. 306
 学校での宗教行事は違憲とされたが、こうした問題の変形として、宗教教育を受けるため、授業日のうちの一定時間、生徒が学校を離れることを認める「出席免除」プログラムの問題がある。こうしたプログラムは、生徒が参加を強制されず、また参加しない生徒の教育活動が妨げられないかぎりは合憲であるとした。                                       (文献5 P52、文献13 松井 P214)
*Spence v. Bailey 
 …第六巡回区控訴裁判所  一九七二年    465 F.2d 797(6th Cir. 1972)
 学校は、戦争や軍事訓練に参加することに宗教上の理由で反対している高校生に、予備将校訓練隊(ROTC)や類似のプログラムに参加することを、卒業に不可欠な科目として義務づけできるかということが問題となった。連邦裁判所は、宗教上の修養と信念とを理由に、良心にもとづいて参加を拒否する生徒に対しては強制できないとした。                                      (文献5  P53)
*Epperson v. Aykansas  
 …一九六八年 連邦最高裁   393 U.S. 97
 進化論による教育を公立校のカリキュラムから削除したアーカンソー州法律は、専ら進化論と相入れない宗派の信仰を支持する目的で制定されたとして修正第一条違反とした。

*Stone v. Graham   
 …一九八〇年  連邦最高裁  449 U.S. 39
 公立学校の全ての教室に「十戒」のコピーを掲示するように義務づけたケンタッキー州法律を違憲とした。                                              (文献11)
*Board of Ed. v. Pico  
 …一九八二年  連邦最高裁  102 S.Ct. 2799
 ニューヨーク州のアイランドトリー学区の教育委員会が、高校と中学の学校図書館から、「反アメリカ的、反キリスト教的、反ユダヤ的、またはまさしく明らかにみだらな」図書を排除した。そこでこの高校と中学校の生徒が差止を求めて提訴した。連邦地裁は原告の訴えを退けたが、控訴審は原判決を破棄し、連邦最高裁もティンカー事件判決を引用して控訴審判決を支持した。(文献9 蟻川 P127)
  「生徒であれ、教師であれ、学校の門のところで言論または表現の自由に対する自分たちの憲法上の権利は  なくなりはしない。生徒は学校という環境のもつ特徴に照らして、第一修正の権利を援用できる。」
  「生徒の第一修正の権利は、議論や論争そして情報や思想の伝達への public accessの系譜に位置づけられ  る。また州は本来利用できるはずの知識の領域を縮減してはならない。憲法は『情報や知識を収集する権利』  を保障する。この権利は…つまり情報請求権でもある。生徒はこのアクセス権を媒介に、多元的で議論好き  な社会へ積極的かつ実効的に参加する準備を行う。」
  「学校と教育委員会は、第一修正の制約内において、その運営を行わなければならない。教室は『思想の自  由市場』なので、『教室を正統性のとばり』でおおいつくしてしまう法は認められない。」
                            (角替晃「公立学校図書館の図書排除と第一修正の権利」『ジュリスト』793 1983)  
*Edwards v. Agnilard  
 …一九八七年  連邦最高裁  107 S. Ct. 2573
 ルイジアナ州の公立学校において天地創造と進化論を均等に取り扱うよう義務づける法律を、修正第一条に反するとして違憲とした。
      (吉崎暢洋「公立学校のカリキュラムで進化論と天地創造の均等な取扱いを要求する法の合憲性」『判例タイムス』 675  1988.11.15、文献2 片山 P68)



3 学校での「表現の自由」に関する判例

*Tinker v. Des Moines Independent School District (ティンカー判決)
 …連邦最高裁 一九六九年二月二四日 判決  393 U.S. 503
 …判決文は「 89 SUPREME COURT REPORTER」P733〜P747参照。(甲二二一号証。翻訳文は甲二二一号証の二)  また、その解説は『 The American Constitution』Sixth Edition P629〜P641参照。
                            (甲二二二号証。翻訳 文は甲二二二号証の二) 一九六五年、アイオワ州の五人の高校生、中学生たちが、ベトナム戦争反対の意思表示のために黒腕章をつけて登校し、停学処分を受けた。ティンカー家の四人の子どもたちの父親はメソジスト派の牧師で、他の一人の母親は女性平和自由国際連盟の役員であった。
 連邦最高裁は、腕章の着用は「純粋な言論」に似た「象徴的な言論」であるとし、学校の生徒にも一般市民同様の「表現の自由」があり、それは公立学校が教育活動の全局面において尊重しなければならない基本的な権利であるとし、この退学処分を修正一条違反とした。
 フォータス裁判官の法廷意見は次のようなものであった。
  「彼らの行為は、腕に二インチ足らずの黒い腕章をつけただけであった。彼らはそのような行為をとおして、  反戦の意思を表明し、和平への模索を主張し、できるだけ多くの人々の支持を得たいと考えていたかと思う。  このような彼らの行為は、学校行事ならびに他の生徒の日常を侵害するものであったとは言えない。彼らの  行為から、授業外で様々な討論がなされたかも知れないが、学業や学内の秩序に影響を及ぼすものではなか  った。そこで憲法の下、国家がこのような学生の表現の自由を否認することはできない。」
 さらに、次の一節が有名である。
  「わが国のシステムにおいて、州が運営する学校は、全体主義の飛び地であってはならない。…生徒は、閉  ざされた中で、州が伝えたいと望むものだけを受けとる存在とみなされてはならない。…憲法上有効な、言  論の規制理由が特別に立証されるのでない限り、生徒は自らの見解を表明する自由を有する。」
  「修正第一条の諸権利は、学校という場のもつ特質を考慮しても、教師及び生徒に及ぶのである。生徒なり  教師が、言論・表現の自由という憲法上の権利を、校門のところでうち捨ててくるのではない。これは最高  裁判所が過去ほぼ五〇年間支持してきた疑いのない考え方である。…学校当局は、生徒に対する絶対的権限  を有していない。われわれの憲法の下では、生徒は、学校の外においてと同様に、学校の内においても 、  『人間』(person)である。」

 先にも多くの事例をあげたように、「国家への忠誠宣誓」儀式への起立拒否などの事件に際しても、しばしばこのティンカー事件判決が引用され、起立拒否も表現の自由の範疇であるとされている。
 また、バーネット事件は、親と子どもの権利がセットで考えられていたが、このティンカー事件では、子ども自身が連邦憲法上の諸権利の主体であると認めたものとして大きな意味を持っている。                                                (文献12 P629、 文献5)

*James v. Board of Ed.
 …第二巡回区控訴裁判所 一九七二年 461 F. 2d 566 (2d Cir. 1972)
 その後、ティンカー事件判決と同様の判断が学校の教員に対してもだされた。ある教員が、黒い腕章を学校内でつけることによって、アメリカのベトナム戦争への関与に対して無言の抗議をしたことを理由に解職されたが、裁判所はそれを認めなかった。(前述 Russo 事件判決文で引用されている。甲二一六号証)  

【参考】 言論に関する政府の関与と「囚われの聴衆」(captive audience)

*Public Utilities Commission of District of Columbia v. Pollak
 …連邦最高裁  一九五二年五月二六日 判決  343 U.S. 451
 …判決文は「72 SUPREME COURT REPORTER 」P813〜P824参照。 (甲二〇〇号証。翻訳文は甲二〇〇号証の二) 市電、市バスの中におけるラジオ放送に対して、乗客がプライヴァシーの権利が侵害されたとして訴えたもの。 このラジオ放送は、90%が音楽、5%がニュース、5%が商業広告となっていた。これに対して二人の乗客が抗議した。彼らの主張は、交通会社がいかにラジオ放送を乗客サービスの一環として、また収入源として利用したいと望んでも、また乗客の大多数がその放送を望んだとしても、乗客の一人でもそれが憲法に保証されたプラィバシーの権利を侵害されると抗議すれば、社内放送は中止されなければならないというものであった。
 法廷意見は、修正第一条違反の主張に対しては、当該放送が通常の会話を妨害しておらず、また不快なプロパガンダを含んでいないとして合憲としたが、ダグラス裁判官は「この事件は人々に聞くことを強制する形になっている」と反対意見を述べた。そこで出された「囚われの聴衆」(captive audience)という概念が注目されている。
 同裁判官の反対意見の趣旨は次のようなものであった。
 「一人で抛っておいてもらう権利は、あらゆる権利の濫觴であり」、「個人の良心に対するその尊敬において思想と信念の神聖を尚ぶ」「合衆国憲法修正第一条によって保障される」「自ら選ぶところに従って思考する」権利は、その「一人で抛っておいてもらう憲法上の権利の重要な側面」である。他方、「政府は、種々の目的から公共の乗り物の中でラジオ(またはテレビ)を利用すること」があり得るが、「今日、政府によるその利用が、文化的目標を達するものであるとしても、明日は、政治的目的のために用いられるかもしれず」、「文化番組から政治番組までの距離は、ほんの一歩」に過ぎない。かかる認識の上に立つとき、「政府は、ラジオ番組を聴取するよう国民を強制することを許されてはならない」(文献9 蟻川 P108より要約)  
  「一人でほうっておいてもらう権利は、まさにすべての自由の始まりである。…もちろん、人は道路や公共  の場に出ていくとき、このプライヴァシーを失う。しかし、自宅以外の場の行為であっても、プライヴァシ  ーに対する管理を免れる権利を有する。当人の意思に反して宗教的儀式に参加することを強要されない。当  人の良心に背いて儀式を肯定し、あるいは従うことを強要されない。他に対立して一つの宗教的、政治的、  あるいは哲学的信条を受け入れることを強要されない。修正第一条で保証された宗教の自由と言論の自由は、  ひとが選択する礼拝、著述、言論を認めるだけではない。これは、政府が選択する行為や行動を行わない自  由を与えている。個人の良心を尊重する修正第一条は、思考と信条の聖域を尊重する。人が自ら選ぶように  考え、望むように信じることは、ほうっておいておらうという憲法の権利の重要な側面である。」
  「路面電車の聴取者は囚われの聴衆である。彼らは選択の結果ではなく、必要上やむを得ずそこにいる。…  自宅で不快な番組を聞く者は、自由にラジオを消すこともできるし、他の局に変えることもできる。レスト  ランなどの公共の場で苛立たしい、あるいは不愉快な番組を聞いた者は、立ち上がって出ていくことができ  る。だが路面電車の乗客は坐って聞いている、あるいは坐って聞かないでいようと努力するしかない。
   人々に他者の考えを聞くことを強要するとき、われわれは扇動者に強力な武器を与えることになる。今日、  ラジオ番組を作成するのは政府に保護されている企業である。明日は、それが支配的な政治グループ、ある  いは宗教グループであるかもしれない。今日、その目的は寛容である。番組には疎ましい雰囲気はない。だ  が、このシステムには固有の悪がある。プライヴァシーは一度侵害されれば、消滅する。人がいったん、あ  る種のラジオ番組の聴取を強制されれば、べつの番組をも強制され得る。文化的番組から政治的番組への距  離はほんの一歩である。
   自由が栄えるためには、政府は決して人々にいかなるラジオ番組の聴取も強制してはならない。プライヴ  ァシーの権利には、競合する娯楽、競合するプロパガンダ、競合する政治哲学のなかから選び取る権利が含  まれるべきである。ひとびとが自由にこうした選択ができるようほうっておかれるならば、プライヴァシー  の権利はその性格においても信頼性においても実りを結ぶだろう。われわれのシステムの力強さは、国民の  誠実性、資質的豊かさ、独立性にある。我々は国民が個人として最も賢明な選択をする能力を信頼している。  このシステムは、集団的強制が行われれば栄えることはできない。本日侵害されたプライヴァシーの権利は、  人の心をコントロールしようとする者に対する強力な抑止力である。」
 なおこの「一人でほっておいてもらう権利」とは、一九二八年のオムステッド判決で「政府の介入しえないものとして、一人でほっておいてもらう権利…いろいろな権利のうちで最も包括的なものであり、文明化した人間にとっては最高の価値をもつ権利…を付与した」とされたものである。
                        (W・ダグラス『基本的人権』奥平康弘訳 学陽書房) 
 この「囚われの聴衆」という概念はその後もしばしば引用され、現在ではアメリカ憲法学において、学校における生徒は「囚われの聴衆」の典型とされているという。(文献9 蟻川 P134)
  「つねに囚われ、未成熟な聴衆を相手に、しかも教育の名の下にメッセージを送ることのできる公立学校は、  government speech にとって、またとない環境を準備するものと言ってよい。その理想的環境性を構成する  諸因子の中で、わけても緊要とされるのが、学校における生徒のcaptive audience性である。」
                                        (文献10 蟻川 P36)  「教育とは、『囚われの聴衆』に宛てた government speechに対し、政府が冠した美称である」
                                       (文献9 蟻川 P123)  「およそ政府がその情報機関としての圧倒的な優位にものを言わせて言論市場に情報の『送り手』として登  場するときは、一般聴衆に対する関係であっても、彼らへの影響は甚大であることが推察され、まして『受  け手』が『囚われの聴衆』である場合には、政府による言論の内容が、それらの人々の思考と精神の過程を  消去不能な強度をもって侵すであろうことが容易に予測され、そのようにして浸透した政府情報が、例え聴  衆の精神活動に有益な影響として検出されることがあるとしても、かかる浸透そのこと自身が、個人の思考  と精神の自律に対する国家による重大な制約でありうる。」(文献9 蟻川 P112)
  
    ・渋谷秀樹「地下鉄車内放送と『とらわれの聴衆』」(『ジュリスト』 89.7.15 ) …甲二〇四号証    ・『 The American Constitution』(6) P674)     …甲二二五号証(翻訳文は甲二二五号証の二)    ・「Encyclopedia of the American Constitution 」1986 P210           …甲二〇一号証