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二 ・ 学 校 で の 宗 教 行 事 に 関 す る 判 例
またアメリカの公立学校では、以前、一日の授業のはじめに、お祈りをしたり聖書を読むところが多かった。こうした学校での宗教的行事に関しては、たとえそれが非宗派的なもので、任意参加のものであっても憲法修正第一条に違反するという連邦最高裁の判断が確定している。
これらの判例は、間接強制の有無の立証は政教分離条項に関しては必要ないということ、また、「強制」という概念を広い現実的な意味で理解すべきだということなど、多くの示唆に富む。
*McCollum
v. Board of Education
…連邦最高裁 一九四八年 判決 333 U.S.
203
公立学校での正規の時間中に私的に雇用されている教師によって行われる任意参加制の宗教教育の時間を設けるというイリノイ州の Released
Time制(解放時間制)を違憲とした。
直接には「国教樹立禁止」条項の判例であるが、公立学校での世俗的授業の一部免除に当たる措置が、親の申請にもとづいて講じられるという意味で、親の「教育の自由」に関する判例の正統であるとも言われている。 (文献10
蟻川 P48、文献13 松井 P214)
* Engel v. Vitale
…連邦最高裁 一九六二年六月二五日 判決 370
U.S. 421
…判決文は「1961 UNITED STATES SUPREME COURTREPORTS
」P601〜P619参照。
当時、ニューヨーク州は、公立学校において教室での始業時の祈祷を義務づけた。この祈祷は、「全能の神よ、わたしたちは神に頼っております。私たちと両親と教師と祖国を祝福してください」というもので、ごく短く、無宗派で、する・しないは生徒の自主判断にまかされていた。これに対して一〇人の生徒の親が訴訟を起こした。 連邦最高裁は、たとえ祈祷が無宗派で、生徒の参加が自主的なものであっても、このような州の定めは修正第一条に違反するとした。
この判決について後述の吉崎論文(『判例タイムス』
611…甲205号証)では次のように述べている。
「公立学校における宗教的活動の合憲性が問題となったとき、最高裁はしばしば間接強制の有無に触れてき た。
Engel判決は、政教分離条項は、@政府による権力、威厳、財政援助が特定の宗教になされることによ って、宗教的マイノリティが間接的強制を受けることがないようにする目的(=『任意主義』)と、A政府 と宗教との結合によって政府を破壊し、宗教を堕落せしめることがないようにする目的(=『分離主義』) を持つと判示した。判決は公立学校における宗教活動を違憲とするに際して、たとえ参加・不参加が任意の ものであっても、なお生徒が不参加の意思を表明することにより、他の生徒に異端視され、それによって多 数者の意思に屈してしまう点をあげているのではあるが、分離主義をより直接的な目的であるとして、間接 強制の有無の立証は政教分離条項にかかわる事件では必要ないとした。」
*Abington
Township v. Schempp
…連邦最高裁 一九六三年六月 判決 374 U.S. 203
…判決文は「1962 UNITED
STATES SUPREME COURTREPORTS
」P844〜P914参照。
一九五九年、ペンシルバニア州では、公立学校で始業時における聖書の朗読と祈祷を行う法律を制定した。この法律では両親から免除を希望する文書を提出した児童にはこれを免除するとされていた。この法令に対して、ユニテリアン派の信者の二人の子どもとその親が差止めを求めた。
連邦最高裁は、学校のカリキュラムの一部として聖書朗読、祈祷を行うことは、たとえ生徒たちがその儀式から退出することができるとしても、修正第一条に違反すると判断した。 (文献11) 「追い出された生徒は仲間内での社会的地位を失ったり、憎しみや非難、軽蔑の目でみられがちである」
(Goetz
v. Ansell 判決で引用。…甲二一七号証の二参照)
*Lemon v. Kurtzman
…連邦最高裁 一九七一年 判決 403
U.S.
602
国教樹立禁止条項、政教分離原則に関する重要な判例。国教樹立禁止条項の解釈にあたって、@その法律が世俗的な立法目的を持たねばならないこと、Aその法律の主たる効果が、宗教を助長もしくは禁止するものではないこと、Bその法律が政府を過度に宗教にかかわらせるものではないこと、の三点を考慮すべきという、いわゆるレモン・テストを提示した。
*Wallace
v. Jafree
…連邦最高裁 一九八五年六月四日判決 472 U.S. 38 、105 S. Ct. 2479
…判決文は「1985 UNITED STATES SUPREME COURTREPORTS 」 P29〜P80
参照。
右記のエンゲル事件、シェンプ事件の連邦最高裁判決によって、公立学校での祈祷文及び聖書朗読は、たとえ任意のものであっても違憲とされたため、それまで全米各地の公立学校で広く行われていた祈祷の大部分が姿を消した。それ以前には八〇%ほどの州が公立学校で聖書朗読を許容、または強制していたが、これらの連邦最高裁判決後は一九七三年までには最高裁判決の遵守率は九〇%にも達したという。
この判決はアメリカの一般市民の最も反発をよんでいる判決の一つと言われ、公立学校での祈祷を認める憲法修正を求める動きなどがあいついだが、可決されたものはない。
最近のものとしてはレーガン大統領が支持した一九八四年の改憲法案がある。
また、昨年の中間選挙での共和党の圧勝の後、憲法修正による「お祈りの時間」の復活が提案された。民主党のリベラル派や市民団体が強く批判しているという。(毎日新聞 1994.11.22)
連邦最高裁の判決の変更、憲法改正が困難なために、祈祷・聖書朗読にかわって、それらが果たしていた教育的機能、道徳的機能を代替するために、始業前に「沈黙の時間」(
a moment of silence
)を設けるところが多くでてきた。これは一九六六年に初めて制定され、本判決当時、二五州で「沈黙の時間」を義務づけ、あるいは認める州法律が制定されていたという。
この「沈黙の時間」の意義については、@生徒の祈祷したいという宗教的必要を配慮するものであり、A祈祷したくない生徒はする必要がなく、他のことを考えておればよい。また他の生徒たちが祈祷を行うことによって、間接的強制を受けることもない。B外形的活動を伴わないので、表面上、宗教を促進することにはならない、と主張されていた。 アラバマ州でも一九八一年に、公立学校教師に、毎日の始業時に「黙想または任意(自発的)の祈祷のための沈黙の時間」を設けることを認める州法律を制定した。また一九八二年には「自ら祈り、希望する生徒に祈らせ、または希望する生徒に以下の祈りをさせることができる」という州法律を制定した。
アラバマ州の公立小学校・幼稚園に通う三人の子どもの父親であるジャフリーが、子どもの学校で毎日始業前に教師によってお祈りが行われていることを知り、学校に中止を申し入れたが聞きいれられず、教師・教育委員会などを相手にしてその差止めなどを求める訴えを起こした。連邦最高裁は、レモン・テスト(前述)を厳格に適用し、八二年法の宗教性はその文言から明らかであるとし、また八一年法についても、「任意の祈祷のため」という文言は、州が祈祷を望ましい行為としていることを示しており、そういった支持は、政府は宗教に対して完全に中立的な途を追及しなければならないという確立した原則に反し、違憲とした。
(喜多村洋一「政教分離の原則」『ジュリスト』 No.868 1986.9.15
) (吉崎暢洋「公立学校における沈黙の時間の合憲性」『判例タイムス』 611)…甲二〇六号証
*Lee
v. Weisman
…一九九二年判決 連邦最高裁 112 S.Ct. 2649
…判決文は『The United States Law
Week』1992.6.23
参照。…甲一九九号証(翻訳文は甲一九九号証の二) 公立学校卒業式での非宗教的祈祷を違憲とした判決。
ロードアイランド州の公立の中学校および高校では、長年にわたり卒業式に聖職者を招いて祈祷を行う慣行があった。ネイサン・ビショップ中学校の一九八九年六月の卒業式でも、リー校長は聖職者を招き、特定の宗派に偏らない非宗派的な祈祷を行うよう要請した。
この祈祷文の一つは次のようなものであった。
「自由と希望と勇気の神よ。
多様性を尊び、少数者の権利が守られるアメリカの伝統を感謝します。この若者達が成長して、これを豊 かなものとしますように。
アメリカの自由を感謝します。新卒業生が成長して、これを守りますように。
すべての市民が政治プロセスに参加できるアメリカの政治システムと、すべての者が正義を求めることが できる司法システムを感謝します。今朝、卒業の栄を受ける者たちが、つねにこれを信頼しますように。
アメリカの天命を感謝します。ネイサン・ビショップ中学校の卒業生が、いつかこれを分かちあうことが できますように。
わが国と、未来の希望を担うこの若者たちへの希求が豊かに実現されますように。 アーメン 」
卒業生の親であるニエル・ワイスマンが、将来行われる卒業式においてこうした祈祷を行わないよう求める差止め訴訟を提訴した。
連邦最高裁は、レモン・テストを適用するまでもなく、反対する卒業生に対しても参加を強制する心理的圧力が加わるので違憲とした。 (長谷部恭男「公立学校卒業式での祈祷」『ジュリスト』1022
93.5.1…甲二〇三号証) ケネディ判事の法廷意見は、信教の自由における「強制」の問題、また、「強制」という概念を広い現実的な意味で理解すべきだと強調しており、興味深い。
「本判決の輪郭を定めコントロールする主要な事実は、州の公務員が中等教育機関の卒業式における宗教儀 式の遂行を指揮し、宗教儀式に反対する生徒にとっても、それへの参加が、明白で実際的な意味において義 務的であったことである。
…初等および中等の公立学校では、信教の自由を『密かな強制の圧力』(subtle
coercive
pressure)か ら守ることにより高い関心が払われている。本件における否定しがたい事実は、学校区による高校卒業式の 監督とコントロールのため、出席した生徒が、祈祷の間起立しあるいは敬意をもって沈黙を守るよう、仲間 からもまた公的にも圧力をうけたことである。社会的慣行を前提とすると、このような状況では、合理的な 反対者が、団体行動に加わることが自分自身の(祈祷への)参加あるいは承認を意味しうると信じえたこと が問題である。
このような事情の下で憲法違反を認めないとすれば、反対者を祈祷に参加するか異議申し立てをするかの ディレンマに立たせることになる。大人についてこのような選択が認められるか否かはともかく、州が初等 および中等教育機関の生徒をこのような立場に置くことは許されない。若者は同じ行動を強いる仲間からの 圧力に敏感であることが多く、その影響力は社会的慣習について最も大きい。」
「連邦政府は、卒業式に欠席するという選択肢があるゆえに、卒業式自体の誘導性あるいは強制は許される と主張する。だが、この主張は説得力がない。法律は形式主義を取らない。十代の生徒が高校の卒業式に欠 席する選択肢を実質的に有すると言うことは、極端な形式主義である。確かにデボラが卒業式に欠席するこ とを選択しても、卒業資格を否定されることはなかっただろう。だが、これを根拠に本件の裁決を覆すべき ではない。われわれの社会、文化では、卒業式は人生のなかでとくに重要な行事であることは誰もが知って いる。欠席を認める学校規則はここでは意味がない。正規の規則では出席を要件としていないかもしれない が、生徒には真の意味で『自発的に』卒業式に欠席する自由はない。欠席するには少年時代、そして高校時 代を通じて楽しみにしていた無形の恩恵を放棄しなければならないからである。卒業式は家族や生徒に近し い者にとって学業成就を祝い、感謝と敬意を表しあう機会であり、社会及びそのさまざまな部門で若者が引 き受けるべき権利であり義務である役割を印象づけるための儀式である。…政府の主張は、若い生徒が直面 する良心の真の葛藤を充分に認識していない。」
「本件において政府が求めた全体一致は国教樹立禁止条項違反を免れるにはあまりに高度の強制である。本 件の祈祷行為は、国家があらゆる現実的な意味で、すべての生徒にとって非常に重要な行事であり、反対す る生徒に回避する選択肢がない場で、明白な宗教行為に出席と参加を強制するものであり、とくに不適切で ある」
またブラックマン判事は補足意見を出した。
「(連邦最高裁の)法廷は繰り返し、国教樹立禁止条項違反は強制の有無によってのみ判断されるものでは ないことを認めている。…政府と宗教の混在は、たとえ誰も参加を強制されなくても自由な政府に対する脅 威となり得る。…そのために判例は、市民が従属を強制されるかどうかにかかわらず、政府が宗教を是認し、 後援し、宗教活動に係わることを禁じている。」