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3 バーネット事件判決
…連邦最高裁 一九四三年六月一四日判決 West
Virginia State of Ed. v. Barnette 319 U.S. 624
…判決文は「SUPREME COURT OF THE
UNITED STATES」87 L ed
1629〜1655
(甲一一九号証。法廷意見の翻訳文も同時に添付している) ゴビテス事件の連邦最高裁判決は、個人の憲法上の権利を侵害したとして、学界や法曹界からの強い批判が集中した。いくつかの州の裁判所では、連邦最高裁判決にもかかわらず、「国家への忠誠宣誓」の儀式の義務化は州憲法に違反すると判示したものもあった。
たとえば、State
v. Smith、Bolling v. Superior Court
など。
また国旗敬礼を強制する制定法が合憲であるとしたものには、Commonwealth v. Johnson (1941)、Commonwealth
v. Bortik (1943) 、In re Latrecchia (1942) などがある。(文献8 佐藤 P597)
ただ、In re
Latrecchiaは、「良心の自由は、無制約な行政行為に従属しない」と、良心の自由との関係について言及している。
連邦議会は、連邦最高裁判決を受けて、一九四二年に国旗敬礼と忠誠宣誓を定めた。
ウェストバージニア州議会でも、「アメリカニズムの理念、原理、精神の教育、育成、伝統と、政府の組織および機構についての知識の増進を目的として、歴史・公民・合衆国憲法および州憲法の教授を州の全ての学校で教える」よう要求する州法律を定めた。これを受けて州の教育委員会も、公立学校の正規の課程の一部として、合衆国国旗に右手を掲げて敬礼を行うとともに、国家への忠誠の宣誓を行うことを、教員と生徒に義務づけた。その義務に従わないことは、不服従行為とみなされ、生徒は退学処分を受けるほか、両親は処罰(五〇ドル以下の罰金と三〇日以下の拘置)を受けることとされたのである。
宗教団体「エホバの証人」を信仰するバーネット家の二人の姉妹は、国旗への敬礼は旧約聖書で禁じている偶像崇拝にあたるとして、起立はしたものの敬礼を拒否し、国家への忠誠宣誓の朗読文も彼ら独自の文句のものを朗誦したため、学校から退学処分を受けた。ウェストバージニア州では四〇人、全米では二千人以上の子どもが退学処分になったという。そこでバーネット家の両親と二人の子どもが、右記の州法律の差止め命令を求めて訴訟を起したものである。
彼ら独自の宣誓の言葉は次のようなものであった。
「私は全能の神エホバとイエスがそのために祈れと命ずる神の国に無制約の忠誠と献身を誓いました。
私は合衆国の旗を尊重し、それを万人の自由と正義の象徴として認めます。
私は、聖書の中に提示されている神の律法に一致する合衆国の法律すべてに忠誠と服従を誓います。」
連邦最高裁は、三年前のゴビテス判決を全面的に変更し、八対一の大差で退学処分の執行停止を認めた。
ジャクソン裁判官による法廷意見は次のようなものであった。
「現在問題になっているのは、生徒に自分の信条を宣言させることを強制することなのである。生徒は、国 旗が何であるのか、あるいはさらに国旗がなにを意味するのかが分かるように国旗敬礼を教えられるのでは ない。現在問題なのは、愛国心を目覚めさせるための道筋として、教育という時間のかかる、しかもよく無 視されやすいやり方を、敬礼とスローガンを強制することで近まわりさせようとすることが合憲か否かとい うことにある。」
「国旗への敬礼は、誓いの言葉と関連して、表現の一形態であることは疑いない。象徴主義は思想を伝達す る上で、原初的ではあるが効果的な方法である。ある組織や考え・制度や人格を象徴するのに記章や旗を使 うことは、人の心と心を結ぶ近道である。」
「国旗敬礼と宣誓を強制することは特定の信条と心的態度を確認させることになる点にも注意しなければな らない。この規則は、生徒がそれとは対立する自分の信念を捨て、命令された儀式にいやいやながらも従う ようになると考えているのか、それとも生徒が信念抜きの言葉と意味のない身振りとで受容している振りを することで構わないというのか、いずれかは不明である。検閲や意見表明の禁止がわが国の憲法で許される のは、その表明が明白かつ現在の危険行為をもたらし、国家としてはそれを防止し、処罰することが認めら れている場合のみであるということは、今や常識である。意に反した承認が命令できるとすれば、それは沈 黙の場合とは違ってもっと直接的かつ緊急の理由がある場合のみに可能であろう。」
「本件においては、州の側が、現在組織されている政体への忠誠の象徴として旗を用いているのである。国 家が個人に対して国家の示す政治的観念を受け入れることを言葉と身振りで示すことを求めているのだ。こ ういう形の意思表示が強制された場合に、それに異議申立てすることは古くからある事であって、権利章典 の起草者たちもよく知っていたことである。」
「国旗敬礼の強制を支持するためには、本心を述べる個人の権利を保障する権利章典が、心もないことを強 制的に表明させる公権力の思うままにされて良いのだと言わざるを得なくなる。…自由な公教育は、非宗教 的な教育、政治的中立という理想に忠実であるかぎり、党派的ではなく、いかなる階級、信条、党派、ある いは宗派の敵となるものではない。」
「教育委員会が、市民になるように若者を教育するのならば、自由な精神をその源泉において窒息させては ならない。若者にわが国の重要な統治原則を、単なる決まり文句であるかのようにして、その価値をおとし めて教育すべきでないとしたら、それだけ個人の憲法上の諸自由を誠実に保障しなければならない。」
「権利章典が作られたその目的は、ある種の事柄については変転する政治的争いから切り離し、多数派や当 局の権力を越えたところに置き、裁判所によって適用される法的原則として確立することにあった。個人の 生命、自由、財産、言論の自由、出版の自由、信仰と集会の自由といった権利および他の基本的権利は投票 に委ねられてはならないし、選挙の結果に左右されたりはしない。」
「最後に、そしてこれこそがゴビテス判決の核心であるのだが、『国民の統合が国家の安全の基礎であり』 当局は『その目的の達成のために適切な手段を選ぶ権利』を有すると論じ、それ故『国民統合』に向けたこ のような強制的手段は合憲的であるといった結論に至っている。この仮定の真実性の有無に本件に対する我 々の回答が分かれる。 当局が説得と実例を通じて促進しようとする国民統合という目的が今問題なのでは ない。問題は、本件において現在採られている強制がその目的達成のために、わが憲法の下で、許容される 手段であるかどうかにある。」
「その時代や国にとって不可欠と考えられる目的に賛同させようとして、人々の感情を強制的に統一しよう とするための努力は、これまで悪意の人のみならず多くの善良な人によってもなされてきた。ナショナリズ ムは比較的新しい現象であるが、時代や場所によって、その目的は民族的あるいは領土的安全保障であった り、王朝や政府を維持することであったり、霊魂を救済する個々の方法であったりした。統合を達成するた めの当初の緩やかなやり方が失敗するとその達成を決意している者達はますます厳しい手段に頼ることにな る。統合を目指す政府の圧力が大きくなるにつれて、その統合が誰のための統合なのかに関する争いがます ます強くなる。おそらく、公教育関係者が、若者にどんな教義と誰の教育計画を抱かせ、統一するのかとい うことを選択しなければならないことほど、他のどんな挑発にもまして、国民を深い分裂に押し進めるもの はないであろう。」
「反対意見を強制的に排除しはじめるとやがてそれは反対者を根絶する事へと繋がってしまう。意見の統一 を強制することは、ただ墓場という同一化をもたらすだけである。」
「我々は統合される者の合意によって政府を作るのであり、権利章典は権力を持つものに、そのような合意 を強制するいかなる法的機会も否定している。この国における権威は世論によって支配されるのであり、世 論が権威によって支配されるのではない。」
「意見を異にする自由は、あまり小さな問題に限られるものではない。もしそれだけのことならば、それは 単に自由の影にすぎないだろう。その本質が試されるのは、現在の秩序の核心に触れる事柄に関しても意見 を異にする権利である。」
「我が憲法という星座に不動の星があるとすれば、高級官僚であれ下級官僚であれ、いかなる役人も、政治 、国家、宗教或いは他の個人の意見に関する事柄で何が正当であるかを決めることはできないし、また、強 制的に市民に対してそれらに関しての信念を言葉や行動で表現させることはできないということである。」
「国旗敬礼と誓約を強制する地方当局の行為は、憲法の制約を越え、すべての公的統制から憲法修正第一条 が保護している知性と精神の領域を犯すものであると当裁判所は考える。」
また、ブラック、ダグラス裁判官は次のような同調意見をだした。
「…連邦最高裁は、宗教上の教義や慣行の実体を攻撃する法律の憲法適合性について決定を下さなければな らない。これは厳粛なる義務である。この義務を果たすにあたり、本件では、(子どもが)宗教上の理由で ためらい、特定の姿勢をとらず、かつ愛国的な決まり文句を口にしなかったというそのことが、国家に重大 な危険をもたらしたとは言えない。…強制されて吐く言葉は自己利益への忠誠の証しにほかならない。祖国 愛は、自発的な心と自由な精神から発するのでなければならず、人民の選出する代表者たちが、憲法の明記 するいろいろな禁止の枠内で制定する妥当な法律を公正に適用することで、吹き込まれるのである。…これ らの法律が修正第一条に適合するためには、自由な人々からなる社会と矛盾しないような、互いに競合する いろいろな見解について最大限の寛容を認めるのでなければならない。…平時における国内の安定も、戦時 における軍事的な努力も、子どもの心に参加しなかったら人々から非難を受けるかもしれないという恐れし かもたらさないような儀式への参加を、当の子どもに強制することに依存しているわけではない。」
さらに、マーフィ裁判官の同調意見は次のようなものであった。
「国旗敬礼義務の履行が公教育を受ける特権の条件とされており、国旗敬礼義務に従うよう強制されている。 …連邦国家が国家の行為から保護している思想及び信教の自由という権利は、自由に話す権利と話すのを控 える権利とを含んでいる。…個人の宗教的信条に反する事柄を、肯定するように公けに強制することは、礼 拝の自由に反し…、私としては、強制的国旗敬礼により生ずる社会的利益は充分にかつ明確かつ具体的なの だから、この義務づけに必然的に伴う自由やプライバシーの侵害があってもやむを得ないとする考えや、個 人の良心や性向に従って話したり沈黙したりする自由が制限されてもやむを得ないとする考えには同調でき ない。…子どもに対して、その子どもが内容空虚な身振りと思っている姿勢を強要し、自己の信条に反する 言葉を繰り返し発するように強制することによって、わずかな祖国愛が子どもの心に生ずるかもしれないが 、それよりも子どもの良心を十二分に擁護する方が重要なのである。」
また、このゴビテス事件判決、バーネット事件判決を通じて、社会的にきわめて重要な事実があったことが指摘されている。
ゴビテス事件当時は、ファシズム国家による戦争の危機が迫り、国家に対する忠誠が強く求められていた時代であった。ゴビテス事件判決も、いわばそうした時代の「社会常識」にそった形で、「国家への忠誠宣誓」を拒否したエホバの証人信徒の訴えを退けたものであった。
ゴビテス事件の連邦最高裁判決後、民衆はエホバの証人派信徒一般に対する反感・敵意をむきだしにして、全国各地で「連邦最高裁判所は我々の味方だぞ」と叫んで、同宗派信徒の本部・私宅を襲撃するなど、彼らに対する迫害を公然化させた。「国旗敬礼を、国家安全の基礎たる国家的統一の促進手段として選んだことは妥当」・(ゴビテス事件・フランクファーター判事法廷意見)という裁判所の主張は、社会的少数者を排除しようという世論をあおりたてたのである。
ところが、三年後のバーネット事件判決の後は、同宗派に対する社会的反感・敵意は減衰し、地域社会における宗教的激情はたちまち沈静化していったという。 (高柳信一「日曜日父母参観授業事件における『宗教の自由』問題に関する意見」
1985年)
こうした事実は「国家的統一を強制することがどんな結果を招くか。その反対に、国家的統一を願うとしても、その強制を控えることがどんなに大切かを示して余りある」(中川明『学校に市民社会の風を』築摩書房
P227)ことを示している。
このバーネット判決は、「合衆国憲法修正第一条の保護するものが、ひとり表現の自由にとどまらず、精神の自由そのものであるということを、これほど明確に認知した判決は他にはない」(アーチボルド・コックス
文献10
蟻川)というように、アメリカ憲法史上最もよく名を知られ、かつ最も高い評価を受けている判決と言われている。
このように極めて格調高い判決であるが、このバーネット判決が否としたのは、国旗敬礼行事そのものではなく、その「強制」のみであるとする見解が一部で主張されている。
「この判決は、学校が愛国的な行事をそのプログラムに含めたり、…全生徒にそれへの参加を要求したりすることを防止するものではない」(田中耕太郎『教育基本法の理論』有斐閣 P562)
「バーネット判決は、あくまでも忠誠プログラムへの参加を拒否する『個人』の権利を承認したものであり、公立学校におけるこのプログラムの実施自体を違憲としたものではない。それ故にこの判決を、公立学校における「君が代」斉唱プログラムそれ自体を問題にしようとした『君が代』訴訟において、それに反対する根拠の一つとした原告の主張は疑問である」(『季刊教育法』92 判例ダイジェスト 「『君が代』訴訟について」)
こうした見解に対しては、著作『憲法的思惟』(文献10)において、このバーネット事件を詳しく分析した蟻川恒正氏の次の指摘が重要であろう。(文献10
P38)
「バーネット判決が禁遏したのは国旗敬礼の強制のみであるとする見解は、たしかにこの判決をめぐりよく行われている見解である。しかし本判決が、はたして非強制的態様での国旗敬礼の合憲性を前提しているかという点になると、その言質を判決自身の内に検索する試みは、ただちに暗礁に乗りあげる。…そうであってみれば『バーネット判決は非強制的国旗敬礼を是認している』という…理由づけは、今や自明の公理から引き下ろされたと言わなければならないだろう。…しかも判決は…それどころか強制的と非強制的とを問わず、およそ国旗敬礼行事の存在そのものに対し、徹底して原理的な討究を向けてさえいる。
Symbolism言明(「国旗への敬礼は、誓いの言葉と関連して、表現の一形態であることは疑いない。象徴主義は思想を伝達する上で、原初的ではあるが効果的な方法である。ある組織や考え・制度や人格を象徴するのに記章や旗を使うことは、人の心と心を結ぶ近道である」)は、実にその討究の跡であった。」
*バーネット事件判決については、判決文の他、次のような文献を参考にした。また、一審の『原告最終準備書面』でも、詳しく触れている。
(1)星野安三郎・鈴木安蔵『学問の自由と教育権』 成文堂
(2)田中耕太郎『教育基本法の理論』 有斐閣
(3)蟻川恒正 『憲法的思惟』 創文社 …(文献10)
(4)片山等「星条旗と日の丸…国旗損壊罪・国旗への敬礼義務と精神的自由権」(『青山法学論集』第三二巻) …(文献1)(5)佐藤全『米国教育課程関係判決例の研究』(『日本の教育課題』T「君が代・日の丸と学校」東京法令 所収)
…(文献8)(6)千葉卓「教育を受ける権利」(『北海道学園大学 法学研究』巻8 1973.3)
(7)兼子仁『国民の教育権』 (岩波新書)
(8)「赤旗」一九九九年五月一〇日
この「赤旗」は、事件の当事者の一人であるゲイリーバーネットさんへのインタビュ−記事である。
@ 同紙によれば、ウェストバージニア州の法律では現在、「公立学校では指定する日には米国旗への忠誠
を誓うことから始める」とされているが、同時に「国旗敬礼に参加を希望しない生徒たちは、敬礼をお こなうことを免除される」とも明記されているという。