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アメリカ連邦最高裁 テインカー事件判決

ジョン・ティンカーとメアリー・ベス・ティンカー
未成年者、上訴人
 対
DES MOINES INDEPENDENT COMMUNITY SCHOOL DISTRICT

審議 1968年11月12日
裁決 1969年2月24日

 学区、理事会、行政職員、教師に対してごく小額の損害賠償および、校長らによる黒腕章の校内着用の禁止規制の禁止命令を求める訴え。アイオワ州南部地区、合衆国地方裁判所はこの訴えを却下、原告は控訴した。第8巡回裁判区、383,F2d. 988にて、判事席において審議され公正に採決され、事件移送命令が認可されたのにかかわらず、証言された。合衆国最高裁判所のフォ−タス裁判官は、学生がベトナム戦争を否認することを表現するために、腕に黒腕章を着用したことに対し、学校当局はそれが学校の活動の混乱を予測させるようなこと、また干渉する対象になるようなこととして示すことはできない。また、学校当局は学生の行動が混乱や無秩序を招く行動であるとも示すことはできない。よって、代表者らによって採用された規則において学校内での腕章着用の禁止に対し、腕章を取り外すことを拒否した学生を停学処分に課することは、学生の表現の自由を侵害することになり、違憲であるとした。

判決撤回、差し戻し
 ブラック裁判官とハーラン裁判官は反対意見を表明。

1.憲法 特定の見解の表現のための腕章着用は修正第一条の自由な言論の範疇に入る。
2.憲法 純粋な言論は修正第一条の下で包括的に保護される。
3.憲法 学校という場の持つ特別な環境を考慮しても修正第1条の権利は教師と学生に及ぶ。
4.憲法 校門をくぐったとたんに生徒も教師も言論、表現の自由への憲法上の権利を失うものではな    い。
5.学校と学区
     州と学校当局は、学校内での品行を管理、規制することに対し、原則的に合憲という保護を    受け、首尾一貫した全体的な権威を持っている。
6.憲法 不明確な恐怖感や混乱への懸念は表現の自由を否定するには十分ではない。
7.憲法 州が学校職員、個人に対して、何らかの意見を表現することを禁止する行為を正当化するに    は、州はその行為が単に一般的でないために生じる不安や不快感を避けるということ、以上の    根拠によって行われたものであることを証明できなければならない。
8.憲法 学校と学区
     禁止された意見の表現が学校業務の適切な規律を実質的に妨害するだろうと示唆するものが    見つからなかった場合は、禁止は支持されない。
9.憲法 学校当局による特定の意見の禁止は、少なくとも学校業務や規律の実質的妨害の回避に必要    であったという証拠なしには憲法上認められない。
10.学校と学区
     学校職員は生徒の上に絶対的な権限を有していない。
11.憲法 学校内及び校外でも生徒は憲法下の「個人」であり、生徒は、州への義務を尊重しなければ    ならないのと同様、州が尊重すべき基本的な権利を有する。
12.憲法 生徒は州が伝えたいと思うものだけを一方的に受け取る者と見なされてはならないし、公式    に認められた感情のみを表現するように制限されてはならない。
13.憲法 言論を規制する憲法上正当な理由がなければ、生徒は自らの見解を表現する自由を有する。14.憲法 学校職員は自分たちが争いたくないと感じる表現については、それをおさえることはできない。
15.学校と学区
     学校は「公共の場」であり、その限られた目的のために使われるためにあるということは、    そこにいる個人の憲法上の権利が、その敷地が純粋に個人所有地である場合と同様に守られる    べきであるということを意味しない。 
16.憲法 生徒の意見表現の権利は授業中のみに限られず、正規の時間中校内どこででも、たとえベト    ナム戦争のような論議の多い話題に関してでも、もしそれが他人の権利を抵触したり学校業務    の規律を実質的に妨げることがなければ、保証される。
17.憲法 授業中でも授業外でも、いかなる理由でも、実質的に授業を妨害したり他人の権利を抵触し    たりするような生徒の行為であっても、言論の自由の憲法上の保証を免れるものではない。     (原文:...is not immunized by constitutional guaranty of freedom of speech)
18.憲法 憲法の下で言論の自由は事実内に存在するのではなく、原則内に存在する制限つきの権利で    ある。
19.憲法 連邦議会が言論の自由の権利剥奪に対し憲法で禁止していることについて、州は制限された    状況の中で注意深く行われた言論に関する行為に対し、道理にあった規制を認めている。
20.憲法 学生がベトナム戦争を否認することを表現するために、腕に黒腕章を着用したことに対し、    学校当局はそれが学校の活動の混乱を予測させるようなこと、また干渉する対象になるような    こととして示すことはできない。また、学校当局は学生の行動が混乱や無秩序を招く行動であ    るとも示すことはできない。よって、代表者らによって採用された規則において学校内での腕    章着用の禁止に対し、腕章を取り外すことを拒否した学生を停学処分に課することは、学生の    表現の自由を侵害することになり、違憲である。

上訴人、アイオワ州Des Moines ダン・ジョンストン
被上訴人、アイオワ州Des Moines アラン・ヘリック
フォータス裁判官が裁判所の判決を申し渡した。

 上訴人ジョン・ティンカー(15歳)、クリストファー・エクハート(16歳)はアイオワ州のDes Moines学区の高校に通っていた。上訴人メアリー・ティンカーはジョンの妹(13歳)で中学生であった。
 1965年12月にDes Moinesの大人と学生のグループがエクハート家で集会を持ち、黒休暇中の腕章着用と12月16日と大晦日の断食によりベトナム戦争反対の意思を公に示すことを決定した。
 Des Moines学校の校長らは腕章着用計画を知り、1965年12月14日に会合を持ち、腕章を着用する生徒全員に取り外しを命じ、拒否した場合はそれに従うまで停学処分とする事を決定した。上訴人らはこの規則を知っていた。
12月16日以降メアリー・ベスとクリストファーとジョン・ティンカーは黒腕章着用の上登校し、腕章取り外しまでの停学処分を受けた。彼らは自らの当初の計画終了日、つまり1月1日まで学校に戻らなかった。
 上訴人の父親らがこの件で米国地方裁判所に訴訟を起こし、被上訴人の学校職員や教育委員会による処分の禁止命令を求め、小額の損害賠償を求めた。証拠審問の後、同裁判所は学校の規律の混乱を防ぐために妥当であったとの理由から学校当局の処分行為を支持し、原告の訴えを棄却した。
 第8巡回区控訴裁判所はこの訴えを全判事列席の上で審議した。裁判官の意見は五分五分に分かれ、地裁の判決が異議なく支持された。我々は全裁判官による無記名裁決を認めた。

I.
[1,2]地方裁判所は特定の意見を表現するための腕章の着用は、修正第一条の言論の自由
  の範疇に入る象徴的な行為であると認識した。我々が議論するように、本件の状況での腕章の着用  は、実際に混乱をきたすような行為ではなく、その可能性もなかった。「純粋な言論」に似たもの  であり、我々が繰り返し支持している修正第一条の下での包括的な保護を受ける資格のある権利で  ある。
[3,4]修正第一条の権利は学校という特殊な環境を考慮しても、教師と生徒が有するもの
  である。生徒も教師も校門で言論・表現の自由を打ち捨ててくるのではない。これは最高裁判所が  過去ほぼ50年間支持してきた疑いのない考え方である。
[5] ウエストバージニア州の教育委員会対バーネット裁判で、最高裁判所は公立学校の生徒は修正第一条の下、国旗敬礼を強制されるべきではないと裁決した。
  ジャクソン裁判官の裁判での弁論より:
  「修正第14条は、現在州にも適用されている通り、州自体と教育委員会を含むあらゆる組織から市  民を守るものである。これらの組織はもちろん重要で、繊細かつ、裁領土の高い機能を有している  が、修正第1条から10条の範疇内で機能しなければならない。市民としての自覚を若い世代に教育  しているが、それはもし我々が単なる平凡なものとしての政府の本質をその価値を減じて若い人に  教育し、その思想の源がそんなにも自由を抑制されていないとすると、それは憲法の個人の自由を  正確に保障することである。」
 他方、最高裁は首尾一貫した憲法の原則の保護のもとで、学校内の品行を管理、または指図するため州や学校職員の全体的な権限において、証言する必要性を繰り返し強調した。

II.
 本件が呈した問題はスカートの長さ、服装、髪型、品行、攻撃的で混乱を招く行為、グループによるデモンストレーションとは無関係である。問題は「純粋な言論」と似た修正第一条の主たる権利である。 学校職員は、上訴人のいかなる騒動や妨害も伴わない無言の受動的な意見の表現を禁じ罰しようとした。上訴人が学校業務を妨害したり、他の生徒の安全を確保し彼らの行為へ関わらない権利を抵触したという証拠はない。
  18000人の生徒のうち黒腕章を着用していたのは数人であり、停学処分を受けたのは5人だけである。学校業務や授業が妨害されたことを示唆する証拠はなく、教室の外で腕章着用の生徒に暴言を吐いた生徒は数人いたが、校内での暴力行為や脅しはなかった。
[6] 地方裁判所は学校当局の行為は、腕章着用により起こりうる混乱へのおそれに基づいた、妥当なものであったと結論を下した。しかし我々のシステムでは、混乱への不明確な恐れや懸念で表現の自由の権利を網羅するほど十分ではない。どのようなものでも絶対的な組織化の発生は問題を起こしうる。どのようなものでも、種類に富んだ大多数派の意見も恐怖を示唆する可能性がある。またどのようなことが教室で、食堂で、キャンパスで話されても、他人の目からは、混乱を起こす原因となったり、討論を始めるように意見が別れてしまう可能性はある。しかし、憲法はこのような危険を冒さなければならないといっている。Terminiello v. Chicago, 337 U.S. 1, 69 S.Ct. 894,93 L.Ed. 1131(1949):
 また歴史は、このようなきわどい自由、また寛大とも言える憲法は、我々の国民性の強さ、独立、アメリカ人の議論好きの社会を生活に組みこみそれを育てあげた活力に基づいたものであることを語っている。
[7,8] 州が学校職員、個人に対して、何らかの意見を表現することを禁止する行為を正当化するには、州はその行為が単に一般的でないために生じる不安や不快感を避けるということ以上の根拠によって行われたものであることを証明できなければならない。
  禁止対象となった行為が学校業務の適切な規律を守るために必要な条件を実質的に妨害するという  証拠がない限り禁止は支持されない。
   本件では地方裁判所はそのような証拠を見いだせず、我々の独立した記録検証でもそのような証  拠は見いだせなかった。
   停学処分後に作成された公式覚え書きの中でさえ、腕章着用の禁止理由として、騒動の予測につ  いては言及されていなかった。逆に学校職員はベトナム戦争への米国参戦への無言の反対のシンボ  ルが論争を引き起こすことを早急に回避したいとの願望からこのような措置に出たと思われる。
[9]  学校当局は政治上または論争上の重要性を持つあらゆるシンボルを禁じようとした
  のではないことも関連性のある事実である。国の政治的運動に関係するボタンやナチズムのシンボ  ルの鉄まんじを着用していた学生さえいたが、禁止命令は出されなかった。ベトナム参戦反対の黒  腕章だけが選ばれて禁止されたのである。学校業務や規律の具体的実質的妨害を避けるために必要  であるという証拠なしに特定の意見の表現だけを禁止することは憲法上許されるべきことではない。[10-14] 我々のシステムでは、州立学校は全体主義の飛び地であってはならない。生徒は
  学校の内外でも憲法で守られた個人であり、州が保証する根本的な権利を有し、彼らもまた国への  義務を遵守する義務を持つ。生徒は州が伝えたい意見を一方的に受け取る者として見なされるべき  ではない。彼らは公に認められた感情の表現の枠内に閉じこめられるべきでもない。彼らの言論の  自由を規制する憲法上有効な理由を示す具体的な証拠がない場合、自らの見解を表現する自由を彼  らは有する。
   Meyer v. Nebraskaではマクレイノルズ裁判官は、「州は『均質な人間を育成するため』に学校を  運営するという理念を我が国は否認した」と述べている。
   個人的に理想的な市民を養うのを妨げるために、スパルタは男たちをバラックに集め、後の管理  者を養成するための教育をそこに委ねた。この結果、その効果に対する評価は天才たちに認められ  たが、その思想は個人と州の関係に触れていて、私達が持っている制度と根本的に異質なものであ  る。どのような法制定も、憲法のあらわしている言葉やその精神の両方に対して暴力をふるわない  人々へ、拘束を押しつけうるとは証言できない。この理念は裁判で長いあいだ繰り返されてきた。  Keyishian v. 州立大学評議委員会(Board of Regent)にて385,U.S. 589, 603, 87 S.Ct. 675,   683, 17 L.Ed.2d 629. Brennan裁判官の裁判所への言葉:「憲法の自由を常に保護しようとする  ところは、アメリカの学校以上、盛んな場所はない。Shelton v. Tucker, [364, U.S. 479], 487[  81 S.Ct. 247, 56 L.Ed.2d 231]. より。教室は特殊な「思想の市場のようなもの」である。国家  の未来はその指導者が、どのような種類の権力から選抜された思想よりも(むしろ)、「大多数の  民衆の世論」から生みでた真実の思想を、いかにひろい範囲でその中に自分をさらし、それに対し  てしっかりと対処できる訓練を積んでいるかにかかっている。」
   彼が主張した理念はその後最高裁判所で何度も繰り返された。
[15-17] この件の理念は、授業のなかでの議論を規定することやそれを監督するために限界を作ることではない。
   学校とは特定の活動のために学生を収容するところであり、その活動の中には個人間の意思疎通、  意見交換も含まれる。これは不可避なことであるばかりではなく、教育プロセスの重要な一部分で  もある。ゆえに生徒の権利は授業中のみ保証されるのではなく、正規時間内であればキャンパス内  どこででも保証されるべきであり、学校業務を実質的に妨害するのでなければ、また他人の権利に  抵触するのでなければ、ベトナム戦争などという論議の多い話題に関しても自己の意見を表現する  自由がある。しかし授業中でも授業外でも、いかなる理由でも、実質的に授業を妨害したり他人の  権利を抵触したりするような生徒の行為であっても、言論の自由の憲法上の保証を免れるものでは  ない。
[18,19] 憲法においての言論の自由は、事実ではなく、理念に存在する限界のあるなかでの権利をあら  わしているのではない。表現の自由が、もし慈悲深い政府が変わりもののためだけに与える安全な  所としての機能しか果たさないのであれば、それは真に存在しているとはいえない。憲法は、州や  議会が言論の自由を奪ってはいけないといっている。憲法を正しく解釈するならば、我々は制限さ  れた状況の中で注意深く行われた言論に関する行為に対し、道理にあった調整を認めている。しか  し修正第1上の権利を電話ブースやパンフレット上などで授業中の討論のみに限定しない。もし学  校職員がベトナム戦争に関して討論したり、正規の授業中以外に校内でその戦争への反対を表現す  ることを学生に禁じたならば、少なくとも学生の行為が学校の規律や業務を実質的に妨害している  ということがはっきりと示されないかぎり、その規制は明らかに学生の憲法上の権利を侵害したこ  とになる。
  Hammond v. South Carolina State College, 272 F. Supp. 947 (D.C.S.C.1967) (州立キャンパ  スに関して開かれた規律正しい抗議集会);Dickey v. Alabama State Board og Education, 273   F.Supp. 613 (D.C.M.D.Ala.1967)(大学新聞の学生編集者の除籍事件)本件の場合、学生の一人が  静香で受け身的な「腕章という証拠物」とよんだその腕章を禁止することは、憲法が保障している  (権利)ものを侮辱しているのと同じである。ブラック裁判官の反対意見最高裁判所の本件での採  決は選挙で選ばれた州率の学校職員が学生を統制していたその力が究極の形で最高裁判所に移ると  いう、全くの新しい時代の幕開けをあらわしたと私は考える。
[20] 記録によると、学校活動の混乱や校内での混乱や無秩序が生じると学校当局に妥当
  に予測させるようなデモンストレーションは行われなかった。これらの上訴人は幅2インチほどの  黒腕章を袖に着用してベトナム戦争の否認と休戦擁護を公に表現しただけで、学校業務の妨害や他  人の生活への侵害を行った訳ではない。教室外に議論は引き起こしたが業務の妨害や混乱を引き起  こすこともなかった。そのような状況では米国憲法は彼らの表現の形態を否定することを州の職員  に認めない。
 我々は認められるべき救済手段の形態に関しては意見を表明せず、下級裁判所が決定すべき事項とする。我々は判決を取り消し、この意見と整合性のあるさらなる審議を求める。
 取り消され差し戻された。

スチュアート裁判官の同意意見
 私は最高裁判所の意見の大半に賛成で、この件の評決に賛成であるが、生徒の修正第一条の権利が大人のそれと同等の範囲に及ぶとする最高裁判所の無批判な仮定には賛成できない。
 Ginberg v. New York の件では最高裁判所はその逆の評決を示したと思う。私は裁判で述べたように、「州は少なくとも正確に詳述された部分では、生徒が修正第一条が前提とする個人の選択の全権利を有しないと判断してもよい」と考える。

ホワイト裁判官の同意意見
 最高裁判所の意見の大半には賛成するが、指摘しておきたいことは、言葉による意思の伝達と、州の正当な利益を十分に侵害する行為による意思の伝達を最高裁判所が区別する姿勢を取り続けているということと、私は上級裁判所が本件の判断の元としているBurnsideでの言論の自由に関する最高裁判所の意見を全て支持するものではないということである。

ブラック裁判官の反対意見
 最高裁判所の本件での裁決は、選挙で選ばれた州立の学校の職員が生徒を統制していたその力が最高裁判所に移った全く新しい時代の幕開けを表すと私は考える。最高裁判所は本件で修正第一条と第十四条が幼稚園から高校生までの生徒が政治的な見解を表現する自由を守ることを力説して全裁判官による無投票裁決を行った。ここで認められた政治的表現とは黒腕章の着用である。州の権限を有する学校職員と教師により腕章の着用を慎むことを命じられた後、わずか7人だけがその命令遵守を拒否した。その中には当時小学校2年生だった8歳のポール・ティンカー、11歳で5年生だったホープ・ティンカー、13歳で8年生だったもう一人のティンカー、次が15歳で11年生だったジョン・ティンカーがいた。彼らの父親は教会を持たないメソジスト派の牧師で米国友好奉仕委員会から給料をもらっている。この他に11年生のクリストファー・エクハートも腕章着用者で上訴人である。彼の母親は女性平和自由国際連盟の役員である。
 最高裁判所はDes Moines学校職員と2つの下級裁判所の判断を次の3つの根拠で違憲としている。まず最高裁判所は腕章の着用を「純粋な言論」に似た「象徴的な言論」とし、ゆえに修正第一条と第十四条で保護されるべきとしている。第二に公立学校は通常の学校機能が「不当に」妨げられない限り「象徴的な言論」を行使する適切な場所であるとしている。最後に最高裁判所は学校のどの規則が「妥当である」かを決定する仕事を修正第一条の選挙で選ばれた職員ではなく正当な根拠もなしに最高裁判所自身のものとした。政治的な思想を伝えるための腕章の着用は修正第一条で守られているという最高裁判所の意見が正しいと仮定しても、生徒と教師が「象徴的なもの」であれ、「純粋なもの」であれ言論の自由の行使の場として好きなように学校を使っていいのかということと、裁判所が生徒の学校での時間の過ごし方を決定できる機能を持てるのかどうかとの重要な問題は残る。
私は常に修正第一条と第十四条の下で州も連邦政府も言論の内容を規制したり検閲する権限も有しないと信じてきたが、いかなる個人も好きな場所で好きな時に演説をしたりデモンストレーションを行う権利を有していると信じたことはない。
 腕章着用の学生が大声で叫んだり暴言を吐いたりしたとの記録はないが、他の学生が彼らを嘲笑したり、ベス・ティンカーとの討論が原因で数学教授が授業ができない状態にまでなったり、通常通りの生徒の授業への集中力を乱したと読み取れる証言がある。腕章着用の生徒自身が騒ぎを起こすことはなかったので、彼らが実際に授業を乱すことはなかったとする最高裁判所の意見は正当化されるかもしれないが、記録によると、腕章が学校当局が恐れたとおり生徒達の授業への集中を乱して、論争の的であるベトナム戦争へ注意を向けさせたことは疑いがない。繰り返すが、もし州立の幼稚園、小中学校、高校の生徒が学校職員による学業への集中を求める命令を無視できる時代が来たのだとすると、それは司法による許可の新しい時代の到来を意味する。その次に予測される段階は21歳か18歳未満の生徒が教育委員会のメンバーの選挙の投票をしたり、メンバーに選ばれることを禁止する違憲の法律を支持することになるであろうと私には思える。
 米国の地方裁判所は州立学校の命令は修正第一条と第十四条を侵害するという考え方を支持することを拒否した。抗議は言論に似たもので修正第一条と第十四条で守られており、学校の命令は「妥当」で合憲であると同裁判所は主張した。かつて裁判所が「正当なプロセス」の侵害を問う(試す)裁判として「妥当さ」を主張した一連の裁判があった。この妥当性の合憲テストが最高裁判所で一季節中優勢であった。フランクリン・ルーズベルト大統領の有名な裁判闘争をもたらしたのもこのテストであった。
*****
 Lochner、Adkins、Burnsなどの裁判でこの「正当なプロセス」という教義が勝ち、正当なプロセスとは裁判所が議会が分別のない行動をとったと考えた場合に法律を違憲にすることができると正式に認めるものであるが、その後この考え方は長い間排除されてきた。
 Ferguson裁判はこの古い「妥当性ー正当なプロセステスト」を完全に否定した。私は何度もこの教義は裁判官に気に入らない法律は切り捨てる権力を与えるものであると言う理由からこれへの反対を表明してきた。もし今日の最高裁判所がマクレイノルズ裁判官の正当なプロセスの概念を支持すれば、我が国にとって非常に悲しい日となろう。最高裁判所が述べてきた他の裁判では、マクレイノルズのこの概念を支持していない。ウエストバージニア州教育委員会対バーネットの裁判では妥当性テストを明らかに拒否した。
 Thornhill v. AlabamaとEdward v.South CarolinaとBrown v. Louisianaのどれもが学童に関連した裁判ではないが、これらはどれもマクレイノルズ裁判官のテストを支持しなかった。
 私は「生徒」と「教師」が校門内でも表現・言論の自由という憲法上の権利を有するという主張をほぼ50年間最高裁判所が支持してきたと言うことを否定する。Meyer裁判でもそれを支持せず、象徴的な言論には全く言及しなかった。それが支持したのは「不当なもの」を非難するということで、教師が8年生未満の生徒にドイツ語を教えることを禁止するネブラスカ州法を違憲とした。真実は反カトリックや反ユダヤ教の人がカトリック教会やユダヤ教礼拝堂で完全な言論・表現の自由を有しないのと同様に、幼稚園の教師や小中学校や高校の生徒は校内で完全な言論・表現の自由を有しないということである。
 私の意見では、州立学校の教師はそこで教えるために雇われているのであって、州の教育課程以外の議題について教えるために雇われているのではない。また公立学校の生徒達も大衆を教育するためや政治的見解などを宣伝するために学校に通っているわけではない。納税者は子供達が教える必要があるからではなく、学ぶ必要があるから彼らを学校に行かせているのである。
 この主題全体に関する真の理念はWaugh v. Mississippi University でマッケナ裁判官が述べていると私は判断する。これはギリシャ語での平和的な学生会の集会を学生に禁じて集会参加者を退校処分とした州の法律に関するもので、この法律は修正第一条を侵害するかどうかが審議され、最高裁判所は学生会の訴えを棄却して全員一致で修正第一条の適用を否定した。この件で最高裁判所は修正第一条の平和的結社の権利を削減するミシシッピ州の権限を支持した。同じ理由が州の公立学校が表現の完全な自由を削減することに同等に適用される。ミシシッピの大学と同様、アイオワの公立学校は生徒に学ぶ機会を与えているのであって、実際の言論や象徴的な言論によって政治を語る機会を与えているのではない。記録によると授業中のベトナム戦争への公的な抗議が州が望んだ教育機関の目的からの逸脱を招いたことは明かである。最高裁判所がミシシッピ州に結社の自由に関して認めたのと同程度の自由な表現の制限の権利をアイオワ州にも与えるべきである。ベトナム戦争への抗議が授業への生徒達の集中力をそいだかどうかの記録はないが、これは前例なく国を二分した論議の多い話題であるため生徒達も他の人々と同様黒腕章が明白に示された時、戦争の死傷者に注意を喚起されるはずである。腕章着用の生徒の意図はまさにそれであるはずである。
 我が国の学校は我々に静寂を与え法を遵守する人々を育てることに寄与してきた。我が国の最大の問題は若者による犯罪で、その多くは学齢の若者によるものである。親のしつけと同様学校の規律は子供達を良き米国市民に育てるために最も重要である。本件の裁決の後、今まで以上に教師のあらゆる命令を無視する生徒が増えることは容易に予期できる。すでに全国の学校で多くの学生グループが暴動、所有物横領、破壊行為を行い、学校にバリケードを張って教育を求める弱き学生を暴力を加えるという事件が頻発している。本件のような教師に対する損害賠償や禁止命令を容易にしてしまう裁決により、未熟な学生達が生徒のために教師を雇うために州が税金を徴収する州の権利よりも学校を支配する自分達の権利を第一に考えるようにすぐにはならないことを祈るのは希望的観測に過ぎないであろう。米国憲法が教師、親、選挙で選ばれた学校職員に公立学校システムの統制を生徒達の手に引き渡すことを強いるという意見を完全に否認する。

ハーラン裁判官の反対意見                    
 私は自らの責任を履行する州立学校の職員が表現と結社の自由を尊重する修正第14条の条件を完全に免れるものではないという意見に賛成するが、同時に彼らは学校の規律と秩序を守るために最大の権限を有するべきだという大勢の意見にも賛成する。
 非上訴人の腕章規制発令の善意を侵害するものが記録に見いだされないため、私は下級裁判所の判決を支持する。