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・公立学校卒業式での非宗教的祈祷を違憲とした判決。
「初等および中等の公立学校では、信教の自由を『密かな強制の圧力』から守ることにより高い関心が払われている。…このような事情の下で憲法違反を認めないとすれば、反対者を祈祷に参加するか異議申し立てをするかのディレンマに立たせることになる。大人についてこのような選択が認められるか否かはともかく、州が初等および中等教育機関の生徒をこのような立場に置くことは許されない。若者は同じ行動を強いる仲間からの圧力に敏感であることが多く、その影響力は社会的慣習について最も大きい。…生徒には真の意味で『自発的に』卒業式に欠席する自由はない。…政府の主張は、若い生徒が直面する良心の真の葛藤を充分に認識していない。」
○連邦最高裁判決(Lee v. Weisman) 1992
The
United States Law
Week、1992年6月23日号
No.90−1014
上訴人ロバート・リー、ネイサン・ビショップ中学校長他対ダニエル・ワイスマン他
(連邦第一巡回上級裁判所送付事件)
判決要旨
No.90-1014
、 1991年11月6日 審理、1992年6月24日 判決
ロードアイランド州プロヴィデンスの公立中・高等学校の校長は、卒業式に聖職者を招いて祝福と祈祷をしてもらうことが許されている。上訴人、中学校長リーは、デボラ・ワイスマンのクラスの卒業式で祈祷をしてもらうためにラビ(ユダヤ教指導者)を招き、その際ラビに市民的儀式における公的祈祷の内容に関するガイドラインを記したパンフレットを渡して、祈祷を無宗派で行うよう助言した。卒業式の直前に、連邦地方裁判所は、学校職員が卒業式に祈祷を行わせることを禁じる一方的緊急差止命令を求めた被上訴人ワイスマン(デボラの父親)の申し立てを却下した。デボラと家族は卒業式に参列し、祈祷が行われた。その後、ワイスマンはリーおよびプロヴィデンス公立学校職員らその他の上訴人が将来の卒業式に聖職者を招いて祝福と祈祷をしてもらうことを禁じる差止訴訟の終局判決(permanentinjunction)を求めた。デボラの高校の卒業式にもそうした祈祷が行われることが予想される。地方裁判所は合衆国憲法修正第一条の国教樹立禁止条項に違反するとして、上訴人らが現慣行を継続することを禁じた。控訴裁判所は上訴を棄却し、原判決を維持した。
判決:公立学校の正規の卒業式の一環として、聖職者の祈祷を実施することは、国教樹立 禁止条項によって禁止されている。
(a)本法廷は、国民の宗教の信条及び実践のために国家がどの程度の便宜をはかることが許されているかについての原則の定義及び範囲を再度問題にする必要はない。小学校及び中学校の祈祷及び宗教的儀式に関する判例が確立していて、これが適用されるからである。したがって、本裁判所はレモン対クルツマン裁判の判決(403
U.S.602)の見直しはしない。政府は宗教の自由な実践の便宜をはかり得るという原則は、最小限、政府が何びとに対しても宗教あるいはその実践を支持し、あるいはこれに参加することを強制し、もしくはその他「(国家)宗教あるいは宗教的信条を樹立し、あるいは樹立しようと試み」る活動を行わないことを保証する国教樹立禁止条項による基本的制限に優先しない(リンチ対ドネリー、465
U.S.668,678)
(b)本事件における州公務員は、中学校の終業式及び卒業式において宗教的実践を命じている。祈祷を行うというリーの決定及び参加宗教家の選択は、州の選択に帰属すべきものである。さらに、祈祷を無宗派とすべきだというパンフレット及び助言を通じて、リーは祈祷内容を指示し、コントロールした。この指示が多くの人々に受け入れられる祈祷にしようという善意から行われたものであっても、学校が関与したことから生じるジレンマを解決することにはならない。なぜなら、政府はより具体的な信条をもつ宗教の樹立を避ける手段として、公式の、もしくは市民的宗教を樹立してはならないからである。
(c)国教樹立禁止条項は、政府による宗教的見解の緩やかな表明として始まったものであっても、いずれは宗教教育及び強制につながるかもしれないという恐れに基づいている。小学校および中学校における祈祷は、とくに間接的強制の危険をともなう。(エンゲル対ヴィタル
、370 U.S.421、アビントン学校区対シェンプ、374 U.S.203
) 学校区の高校卒業式に対する監督およびコントロールは、参加生徒に祈祷と祝福の間、グループとして起立するかあるいは敬意ある沈黙を守らなければならないという、微妙で間接的な公的及び集団的圧力を加える。異なる信条をもつ高校生は、その年齢からして、起立し、あるいは沈黙を守ることは集団的宗教実践に対する敬意というよりも、これへの参加あるいは承認を意味すると信じると考えられる。青年はとくに社会的行事の場では仲間の集団的圧力に敏感な場合が多いのであるから、政府は直接的手段を使用してはならないのと同じく、社会的圧力によって宗教を強制してはならない。これらの祈祷は重要性が小さいという主張によって宗教的実践の押しつけを正当化することはできない。これはラビおよび祈祷に意義を感じる人々への侮辱であり、またいかなる押しつけも反対者の権利に対する現実的な侵害だからである。
(d)式に参加しないという選択肢があるから式への勧誘や強制は許されるという上訴人の主張は認められない。この社会では、高校卒業式は人生において重要な意義をもっており、学生には真の意味で「自発的に」参加しない自由はない。さらに、多くの人々にとって人間的達成は精神的エッセンスと切り放しては考えられないものであるから、祈祷は卒業式に欠かせない一部であるという主張も、決定的な意味をもたない。この主張は、多数者にとっての精神的必要事がワイスマンにとっては国家による宗教的強制であることを認識していない。また、強迫のリスクがきわめて高い環境において、卒業式に欠席するか、国家が後援する宗教的実践に参加するかの選択を迫られる学生の良心の葛藤に対する認識も不十分である。
(e)公立学校と立法議会に固有の相違により、本件は祈祷を認めたマーシュ対チェンバース、(463
U.S.783)とは異なる。成人がとくに説明することなく、またさまざまな理由で自由に出席退出ができる立法議会の開会式と、学生にとって非常に重要で、大きな強制力をもち得る学校行事と同列に扱うことはできない。
908F.2d 1090, 原判決維持
ケネディ判事が意見を述べ、ブラックマン、スィーヴンス、オコーナー、ソーター判事がこれに同意した。ブラックマン判事とソーター判事は補足意見を述べ、スティーヴンス判事とオコーナー判事がこれに同意した。スカリア判事は反対意見を述べ、レンクイスト首席判事、ホワイト、トマス判事がこれに同意した。
ケネディ判事が法廷意見を述べた。
ロードアイランド州プロヴィデンスの公立学校長は、中学および高校の卒業式に聖職者を招いて祈祷と祝福を与えてもらうことが認められている。われわれが審理すべき問題は、卒業式に聖職者を招いて祈祷を行わせることは修正第一条の信教の自由に合致するか、修正第14条は州及び州校区に全面的に適用できるかということである。
T
A
デボラ・ワイスマンはプロヴィデンスの校区にあるネイサン・ビショップ中学校卒業生で、1989年6月の卒業式においてネイサン・ビショップ中学校を卒業した。プロヴィデンス学校委員会および教育長は長年、中学および高校の校長が聖職者を招いて祈祷と祝福を与えてもらうことを許してきた。全部ではないが多くの校長が、卒業式に祈祷をさせてきた。デボラの父親ダニエル・ワイスマンは自分自身及び娘の代理として、デボラの中学でのすべての祈祷に抗議してきたが、効果がなかった。上訴人のロバート・E・リー校長はデボラのクラスの卒業式に祈祷をしてもらうためにラビを招いた。プロヴィデンスのベス・エル寺院のラビ、レスリー・ガターマンは、この招きに応じた。
プロヴィデンスの学校職員は招いた聖職者に、クリスチャン及びユダヤ教全国会議が作成した「市民行事における指針」と題したパンフレットを与えることが慣習になっている。この指針は、無宗派の市民行事における公的な祈祷は「無差別と感受性尊重」を旨とすることを勧めているが、「市民行事によってはどのような種類の祈祷も不適当なことがある」ことも認めている。(App.20-21)
校長は卒業式前にラビ・ガターマンにパンフレットを渡し、祈祷と祝福は無宗派で行うべきことを助言した。(合意された事実陳述
17.id.13)
ラビ・ガターマンの祈祷は以下のようなものであった。
祈 祷
自由と希望と勇気の神よ
多様性を尊び、少数者の権利が守られるアメリカの伝統を感謝します。この若者達が成長して、これを豊かなものとしますように。
アメリカの自由を感謝します。新卒業生が成長して、これを守りますように。
すべての市民が政治プロセスに参加できるアメリカの政治システムと、すべての者が正義を求めることができる司法システムを感謝します。今朝、卒業の栄を受ける者たちが、つねにこれを信頼しますように。
アメリカの天命を感謝します。ネイサン・ビショップ中学校の卒業生が、いつかこれを分かちあうことができますように。
わが国と、未来の希望を担うこの若者たちへの希求が豊かに実現されますように。
アーメン
祝 福
おお、神よ、この喜ばしい卒業式に祝われる学習能力をお与えくださったことを感謝します。
子供たちが重要な一里塚を画すことができた幸せな家族たちが感謝を捧げます。子供たちを助けて今日の日を迎えさせた教師と職員を祝福してください。
卒業生たちは未来への力と指針を必要としています。わたしたちが知識だけでは完成されないことを、彼らに理解させてください。わたしたちはすべて、あなたの要求を満たすために努力しなければなりません。すなわち正義を行い、慈悲の心で愛し、慎ましく前進することを。
神よ、わたしたちを生かし、守り、この幸せな一時を迎えさせてくださったことを感謝します。
アーメン
(同上.22−23)
本件の記録は多くの点で乏しく、校区が「進級式」と呼ぶ中学校卒業式の固定した慣習にわれわれは疎い。だが、高校の場合はそれほどの制約はない。高校卒業式はアメリカの文化生活の一環であり、われわれは自信をもって習慣的な式次第を陳述することができるし、これは記録からも、また当事者の陳述によっても確認されている。プロヴィデンスの学校では、高校の卒業式の大半が学校外の場で行われるのに対し、中学校の卒業式は大半が校内で行われている。デボラが現在通っているクラシカル高校は校内で卒業式を行っている。(合意された事実の陳述、37、同上.17)
当事者は、卒業式への出席は自由意思によると明記している。(合意された事実の陳述、41、同上.18)
卒業生は教師及び学校職員の指示に従って集団で行列して式場に入り、家族とは別の場所に着席する。高校卒業式への聖職者の参加は、デボラの中学校の卒業式でのそれと類似と考えてよいと思われる。ここでは卒業生は忠誠の誓いのために立ち上がり、そのままラビの祈祷の間起立していた。(口頭陳述.38)
祈祷の前後に静粛の時間があると想定しても、ラビの二つの祈祷は一分を越えなかったはずである。ラビが儀式の間ずっと壇上にいたのか、卒業生が一人一人壇上で証書を受け取ったのか、ラビが卒業生への祝辞に参加したのかは不明である。
学校委員会(及び法廷助言者としてこれを支持する合衆国)は、卒業式のような人生の重要な行事においては聖なる指導と国民の深い精神的希求への敬意と認識が表明されるべきであると考えている全国の多くの卒業生と家族にとって、卒業式におけるこうした短い祈祷は重要な意味をもっていると主張する。われわれは、本件のような困難な事件に取り組むにあたって、この主張があたっていると考える。祈祷の意義は、ダニエルおよびデボラ・ワイスマン事件の核心でもあるからである。
B
デボラの卒業式は1989年6月29日にネイサン・ビショップ中学校内で行われた。式の4日前にダニエル・ワイスマンはプロヴィデンスの納税者として、またデボラの訴訟後見人として、学校職員が卒業式に祈祷と祝福を行わせることを禁ずる一方的緊急差止命令をロードアイランド地区連邦地方裁判所に求めた。裁判所は審理の時間がないことを理由に、この申し立てを拒否した。デボラと家族は卒業式に出席し、そこで祈祷が行われた。1989年7月、ダニエル・ワイスマンは上訴人プロヴィデンス公立学校職員らが今後、卒業式に祈祷と祝福を行わせることを禁じる差止訴訟の終局判決を求める修正申し立てを行った。ダニエル・ワイスマンの納税者としての立場については、議論が尽くされているのでここでは取り上げない。デボラ・ワイスマンはプロヴィデンスのクラシカル高校に入学し、確定はしていないが記録によれば、彼女の卒業式にも祈祷と祝福が行われるだろうと思われる。(合意された事実の陳述、37、同上
17)
本訴訟は合意事実に基づいている。地方裁判所は、上訴人が公立学校の卒業式において祈祷と祝福を行わせる慣行は修正第一条の国教樹立禁止条項に違反していると判断し、上訴人にこの慣行の継続を禁止した。(728F.Supp.68(1971)) 裁判所はレモン対クルツマン判例によって確定された国教樹立禁止条項の3カ条の基準を適用している。(403
U.S.602(1971)) 判例のこの基準によれば、国教樹立禁止条項を満足させるために、政府は(1)政教分離の目的を明確に反映させ、(2)第一義的効果として宗教を推進せず禁止せず、(3)宗教への過度のかかわりを避けなければならない。(公共教育と宗教の自由委員会対ナイキスト、413U.S.756、773(1973)) 地方裁判所は上訴人の行動が基準の第2に違反し、従って、第1と第3をも満たしていないと判断した。裁判所は判例に従って、政府が「ある宗教あるいは宗教一般に国家が一体化する」行動を取った場合(728F.Supp.71)、あるいは「政府の行動が事実上ある宗教をべつの宗教より優遇するか、あるいは宗教一般に積極的承認を与える」場合は(同上.72
)、レモン基準に違反すると裁決した。裁判所は、公立学校の卒業式に祈祷と祝福を行わせる慣行は、たとえいわゆる無宗派のものであっても、政府権力と宗教的慣行の一体化であり、宗教を承認し、国教樹立禁止条項に違反すると判断した。ここで裁判所は、第六巡回区控訴裁判所がマーシュ対チェンバース(463u.s.783、(1983)
)の判断に従い、公立学校卒業式における祈祷と祝福は必ずしも憲法違反ではないと裁決したスタイン対プレーンウェル・コミュニティ学校(822F.2d.1406(1987))の判例に従わないことを明確にしている。マーシュ事件では、ネブラスカ州議会開会式で公金から支払いを受ける牧師が祈祷を行う慣行を合憲と判断した。この事件では、地方裁判所は、マーシュ事件の場合は狭い裁決で「立法府における祈祷という特殊な状況に限定」され、学校の祈祷とは係わりがないという信念から、第六巡回区の判断に従っていない。(728F.Supp.74)
第一巡回区連邦控訴裁判所では、原判決を維持した。トゥレラ判事による多数意見は、地方裁判所の意見を採用した。(908、F.2d.1090(1990)
) バウンズ判事は多数意見に賛成したが、べつに参考意見を表明し、本件の慣行はレモン基準のすべてに違反すると述べた。バウンズ判事は、マーシュ事件の判例が学校の祈祷には適用されないこと、従ってスタインの判決は誤りであることで、地方裁判所の意見に同意した。また、同判事は国教樹立禁止条項は、神への言及がないものであっても公立学校の卒業式におけるすべての祈祷を禁止していると示唆した。(908F.2d.1090-1097
) キャンベル判事は、マーシュとスタインの判例に基づき、多数意見に反対した。同判事は、祈祷が無宗派であり、学校職員が確実に、出席者の多様な信念と倫理を代表する人物に祈祷と祝福を行わせるなら、国教樹立禁止条項違反とはならないと判断した。(908F.2d.1099) われわれ上訴裁判所(499
U.S. (1991))は、原判決を維持する。
U
われわれの決定はこれらの明確な事実によって規定される。州職員が中学校の修業式及び卒業式に、正規の宗教的行為を指示している。宗教的行為に反対する生徒にとっても、州が後援する宗教的行為への出席及び参加は、たとえ校区が証書授与の条件として出席を義務づけていなくても、公正かつ実質的な意味で義務である。
本件については、多くの市民の信教と宗教的実践の便宜を国家がどの程度まで図ることが許されるかという原則問題についてわれわれの見解が分裂した、最近の困難な判例に戻る必要はない。これについてはアレゲニー郡対グレイター・ピッツバーグACLU(495
U.S.573(1989))、ウォレス対ジャフリー(472 U.S.38(1985))、リンチ対ドネリー(465
U.S.668(1984))を参照。 他の文脈におけるこうした原則に立ち戻るまでもなく、本事件については、公立小学校及び中学校における祈祷と宗教的実践に関して確立した判例によって、プロヴィデンス市の政策は憲法違反である。本件の判断にあたっては、公立学校が宗教的実践のために便宜をはかる努力について判断する普遍的な憲法の枠組みに照らす必要はない。したがって、われわれはレモン対クルツマン判例に照らして判断を再検討すべきであるという上訴人及び法廷助言者としての連邦政府の主張を受け入れない。本件においては、公立学校における宗教的実践を州が後援し指示していることで、政府が宗教活動に関与していることは明らかである。この正規の修業儀式を実施することは学生のための祈祷に関する確立した規則に反し、これだけで本件について判断を下すに充分である。
政府が自由な宗教の実践の便宜をはかり得るという原則は、国教樹立禁止条項による基本的な制約に優先しない。少なくとも憲法は政府が何びとにも宗教あるいはその実践への支持や参加を強制しないこと、あるいは「国教もしくは宗教的信条を樹立し、あるいは樹立しようとする」ようなやり方で行動しないことを保証していることについては議論の余地はない。リンチ判例、また、エヴァーソン対ユーイング教育委員会の判例(330
U.S.1、15-16
)を引用したアレゲニー郡判例を参照。学校における祈祷に対する政府の関与は、これらの中心的な原則に違反するものである。
上訴人側はこの関与を否定していないが、これは問題をはらんでいる。学校職員、校長は、祈祷と祝福を行わせるべきだと決定した。この選択は政府に帰属し、憲法の観点からいえば政府が祈祷を行わなければならないという政令を発したも同然である。校長は宗教的参加者、本件ではラビを選んだが、この選択もまた政府に帰属する。ラビを選択した理由は記録には明らかにされていないが、特定の聖職者に司式を行わせる選択が他に差別的である可能性は明らかである。
もちろん、差別的であることは宗教に関する国家の決定すべてに付随し得るし、それが存在するから、あるいはその可能性があるからといって、あらゆる場合に宗教の便宜を図ろうとする国家の試みが有効性を失うものではない。しかし、本件における具体的な差別性は、それが中学校という、以下に見るように微妙な強制の圧力が存在し、生徒には参加あるいは参加したように見えるという外見を避ける真の選択肢が存在しない場での明白な宗教的実践をめぐるものであるから、重要な意味をもつ。
国家の役割は、卒業式に祈祷を行わせるという決定と聖職者の選択で終わるものではない。リー校長はラビ・ガターマンに「市民的行事の指針」を渡して、祈祷を無宗派で行うよう助言した。このような手段によって、校長は祈祷の内容を指示し、コントロールしたのである。ラビがこの指示を無視した場合の制裁は二度と招かれないというだけであっても、コミュニティにおける評価と効果に配慮する宗教家なら、この点で国家の不興を買おうとすることはないと思われる。「いかなるアメリカ国民の集団に対しても、政府が実施する宗教プログラムの一環として公式の祈祷を唱えさせることは、政府の任ではない」ことは、国教樹立禁止条項の礎石たる原則であり(エンゲル対ヴィタル、370、U.S.421425(1962))、学校職員もこれを遵守するよう務めなければならない。
上訴人は、祈祷の内容に対する指示は宗教的対立のきっかけとなることが多い宗派主義を卒業式で避けるための学校側の善意の試みであると主張しており、本事件についてこれを否定すべき理由はない。特定の宗教の考えやイメージを使った祈祷は中立的祈祷や祝福とは異なる宗派的敵対意識を激化させる可能性があることから、この懸念は理解できる。しかし学校側の釈明は、これに参加することによって生じるジレンマを解決するものではない。問題は多くの人々に受け入れられる祈祷にしようという学校の善意ではなく、現実的に考えて生徒が参加を義務づけられている宗教行為において祈祷を行うことが目的である場合、そうした行為が合法であるかどうかということである。
ここでは無宗派の祈祷やユダヤ‐キリスト教の伝統を包括する祈祷、たとえば明白にイスラエルの神、あるいはイエス・キリスト、特定の聖人といった存在をもちだす祈祷よりも受け入れやすい祈祷があり得るかどうかの判断が求められている。経験的な観察から、本件で少数意見を述べたキャンベル判事が引用した、わが国には宗派的実践が許容されない場合にも許容される市民的宗教が生まれているという第六巡回区控訴裁判所の見解に対する支持もあると思われる。(スタイン、822F
2d.1049、908F.2d.1090、1098‐1099(CA1
1990)(キャンベル判事、少数意見)・(下記判例)また、市民宗教と国教樹立禁止条項、95、YALE
L.J.1237(1986))を参照。 かつては対立した信仰であっても、人間の思いつきを超越する倫理と道徳があるという共通の信念表明を可能とする共通の基盤が確定できるなら、すべての適正な社会が求める共同体意識と目的意識を推進することができるかもしれない。だが、C正第一条は政府がこうした目的を涵養する祈祷を妨げることを禁じ、同時に政府がそうした行為を自ら行うことも禁じている。
修正第一条の信教の自由条項は、宗教的信念と宗教的表現はあまりにも貴重であり、国家が禁止したり命令したりはできないことを意味している。憲法の思想は、宗教的信念と信仰の維持及び伝達は私的領域で責任と選択を実行すべきもので、そこではこれを遂行する自由が約束されているということである。したがって、反対者や異議をもつ非信者に対する保護を明確にする配慮がなされなければならないが、この条項は政府の介入から宗教を守るためにも存在することを忘れてはならない。修正第一条から第十条の主たる担い手であったジェームズ・マディソンは、少数者に対する影響だけを理由に国教樹立に反対したのではない。彼の見解の主要な根拠は次のとおりである。「国教樹立が宗教の純粋性と効力を維持するどころか逆の作用をすることは経験が明らかにしている」。(宗教税に反対する請願及び抗議(1785)、第8ジェームス・マディソン文書、301(W・レイチャル、R・ラトランド、B・リペル及びF・トゥート編集、1973))
学校職員にはとくに、これらの配慮が適用される。学校職員が祈祷内容の管理を行えば、参加したくないと考えている生徒は参加を要請されていると受け取るだろう。本件において共通の地盤を見出そうとする学校職員の努力は宗教の分立ではなく共通面を認識しようとする善意の試みと見られるが、判例は学校職員が生徒のための正規の行事の一環として祈祷を行わせることを認めていない(エンゲル対ヴィタル、425
)。また、これらの判例は市民宗教の思想を、すべての信仰が認められなければならず、いずれも優遇されてはならないとする修正第一条の信教の自由条項の中心的な意義に照らして判断するよう促している。政府が官製宗教樹立や、より固有の信条をもつ国教の樹立を避けるために市民的宗教を樹立するということは矛盾であり、受け入れられない。
本件における学校の関与は、卒業式における祈祷は国家行為の印を帯びており、したがって反対する学齢期の児童はジレンマに置かれることを明らかにしている。ここで祈祷を望む生徒と望まない生徒の立場に関心を向けよう。
誤った思想や対立する内容のスピーチを我慢し、その後に反論することを学ぶことは、寛容な市民社会を目的とする開かれた発言が存在すべき、多様性ある社会で生きるための学習の一つである。また寛容は、ある程度の義務の相互性を前提としている。われわれの憲法が想定している自由社会では、賛成しない思想を受け入れたり拒否したりする市民の能力を信頼する必要があると言うべきで、高校教育における祈祷は選択肢の提供以上のものではない。高校上級生になるまでには、嫌悪し、あるいは非倫理的であるとか無意味である等と感じる思想に触れるクラスや集会に出席したり、宿題をしたりしなければならないことは疑問の余地がない。こうした事情を考えれば、生徒が教育過程で侮辱的あるいは非宗教的と感じる思想を経験させられながら、一方では学校が短い正規の祈祷式の実施を否定されるという司法判断を奇妙だと考えるかもしれない。しかし、この主張は入れられない。これは憲法の基本的ダイナミズムを見過ごしている。
修正第一条は言論と宗教をまったく異なったメカニズムによって守っている。言論は、政府が関与する場合でも完全な表現を確保されることで守られている。一部の最も重要な言論は、政府に特定の考えを採用するよう説得することを目的とするからである。(ミーズ対キーン、481、U.S.465、480-481(1987)。またケラー対カリフォルニア州法曹協会、496U.S.1、10-11(1990)、アブード対デトロイト教育委員会、431U.S.3.9(1977)) 信仰の自由と宗教に係わる良心の自由を守る方法は、これとはまったく逆である。宗教に関する論争や表現において、政府は主たる参加者ではない。立法者は国教樹立をすべての自由に対立すると考えていたからである。信教の自由条項は、修正第一条の言論の自由条項にきわめて類似の良心と礼拝の自由を包含するが、国教樹立禁止条項はとくに宗教的事項に対する国家の介入形態を禁止するもので、言論の自由条項にはこれにあたるものはない。(バックリー対ヴァレオ、424U.S.2、92-93、およびn.127(1976)(裁判所意見)
) この根拠は国教樹立禁止条項のもととなった教訓で、その教訓とは政府の手にかかるとはじめは寛容な宗教的見解の表現であったものが、教条主義と強制の政策になりかねないということである。官製の正統主義は、信仰が押しつけでなく真実のものであることを唯一保証する信教と良心の自由を重大な危機に陥れる。
修正第一条は起草された18世紀と同じく現代でも緊急性をもっている。時代にかかわりない教訓の一つは、市民が国家に後援された宗教行為の対象とされれば、国家は自由な国民の印である個人の侵すべからざる良心と信条の領域を守り、尊重するという自らの義務を否定することになるということである。今日、この原則を曲げれば、われわれ自身の伝統を否定し、この伝統を守るべきだと他者に求める根拠を失うこととなる。
先に見たとおり、小学校及び中学校で良心の自由を微妙な強制の圧力から守ることに関する懸念が高まっている。(アビントン校区対シェンプ、374U.S.203、307
(1963)(ケネディ判事、補足意見)
) エンゲル対ヴィタル事件(370U.S.421(1962))の裁決及びアビントン校区の判例は、とりわけ公立学校の祈祷が間接的な強制という具体的な危険をはらんでいることを認めている。この懸念は、学校の場に限られるものではないにしても、学校において最も顕著である。(アレゲニー郡対グレイターピッツバーグACLU、492U.S.661(ケネディ判事の一部同意、一部反対の補足意見)) 大半の信者が非信者に宗教的行為への当然の敬意を求めるにすぎないと見る事柄が、学校の場では、無信仰者あるいは非信者に国家機構を利用して宗教的正統性を強制することと受けとめられるかもしれない。
こうした現象については、本件の状況以上のことを考える必要はない。卒業式に対する校区の監視とコントロールが、列席生徒に対して祈祷と祝福の間、集団として起立するか少なくとも敬意ある沈黙を守るよう、同世代仲間からかかる圧力とならんで公的圧力を加えることになるのは否定できない事実である。この圧力は微妙で間接的なものであっても、あからさまな強制と同じく現実的であり得る。もちろん、われわれの文化では、起立あるいは沈黙は、ある見解への賛成を意味するだけでなく、他者の見解への単なる敬意をも意味し得る。また、祈祷に加わりたくないと考える人々の一部は、他者への敬意の証としての起立に反対しないだろうことも疑いない。だが、高校生の年齢の非信者で、良心の自由に反するやり方で国家に祈祷を強制されているという妥当な感受性をもつ者にとっては、侵害の実質性は少しも減らない。卒業式に列席する生徒の大半とはいえないまでも多くの者にとって、起立あるいは沈黙という行為がラビの祈祷への参加を表明することは疑問の余地がない。これこそが、宗教的行為の要点である。したがって、起立あるいは沈黙は参加ではなく単なる敬意であると言われても、非信者にとってたいした救いにはならない。重要なのは、われわれの社会的慣習では、集団的行動は自らの参加あるいは賛意を意味すると、良識ある非信者が信じる可能性があることである。
こうした状況を憲法違反でないとすることは、反対者をあらゆる意味で参加するか抗議するかのジレンマに立たせることになる。われわれは、そのジレンマに立たされる者が成熟した大人である場合、その選択が認められるものであるかどうかは問わないが、国家は国教樹立禁止条項に則り、小学校及び中学校の生徒をこのジレンマに立たせてはならないと考える。若者は同じ行動を強いる仲間からの圧力に敏感であることが多く、その影響力は社会的慣習について最も大きいことは心理学的研究によって確認されている。(ブリタン、青年の選択と良心‐仲間の対立する圧力、28Am.社会学紀要、385(1963年6月)
クラセン及びブラウン、青年期における仲間の圧力の多面性、14J.若者と青年
451(1985年12月)ブラウン、クラセン及びアイチャー、仲間の圧力の知覚、同世代同一性の傾向、青年の自発的報告による行動、22
発達心理学521(1986年6月))国家が強制する選択は許容し得ない制約であると認識することは、政府が正統性を強要するために直接的手段を用いてはならないのと同じく社会的圧力を用いてもならないことを認めることにすぎない。
政府の行動による被害、及びダニエル・ワイスマンとデボラ・ワイスマンがこれに反対する理由は、学校の場で国家が事実上宗教的行事への参加を要求していることである。これは短い行事であり、個人はそのメッセージに没頭してもよく、自らの宗教について考えていても、上の空でいてもいいことは確かである。だが、宗教的行事のもつ不当性と侵害を、これらの祈祷も将来の同家が禁止したり命令したりはできないことを意味している。憲法の思想は、宗教的信念と信仰の維持及び伝達は私的領域で責任と選択を実行すべきもので、そこではこれを遂行する自由が約束されているということである。したがって、反対者や異議をもつ非信者に対する保護を明確にする配慮がなされなければならないが、この条項は政府の介入から宗教を守るためにも存在することを忘れてはならない。修正第一条から第十条の主たる担い手であったジェームズ・マディソンは、少数者に対する影響だけを理由に国教樹立に反対したのではない。彼の見解の主要な根拠は次のとおりである。「国教樹立が宗教の純粋性と効力を維持するどころか逆の作用をすることは経験が明らかにしている」。(宗教税に反対する請願及び抗議(1785)、第8ジェームス・マディソン文書、301(W・レイチャル、R・ラトランド、B・リペル及びF・トゥート編集、1973))
学校職員にはとくに、これらの配慮が適用される。学校職員が祈祷内容の管理を行えば、参加したくないと考えている生徒は参加を要請されていると受け取るだろう。本件において共通の地盤を見出そうとする学校職員の努力は宗教の分立ではなく共通面を認識しようとする善意の試みと見られるが、判例は学校職員が生徒のための正規の行事の一環として祈祷を行わせることを認めていない(エンゲル対ヴィタル、425
)。また、これらの判例は市民宗教の思想を、すべての信仰が認められなければならず、いずれも優遇されてはならないとする修正第一条の信教の自由条項の中心的な意義に照らして判断するよう促している。政府が官製宗教樹立や、より固有の信条をもつ国教の樹立を避けるために市民的宗教を樹立するということは矛盾であり、受け入れられない。
本件における学校の関与は、卒業式における祈祷は国家行為の印を帯びており、したがって反対する学齢期の児童はジレンマに置かれることを明らかにしている。ここで祈祷を望む生徒と望まない生徒の立場に関心を向けよう。
誤った思想や対立する内容のスピーチを我慢し、その後に反論することを学ぶことは、寛容な市民社会を目的とする開かれた発言が存在すべき、多様性ある社会で生きるための学習の一つである。また寛容は、ある程度の義務の相互性を前提としている。われわれの憲法が想定している自由社会では、賛成しない思想を受け入れたり拒否したりする市民の能力を信頼する必要があると言うべきで、高校教育における祈祷は選択肢の提供以上のものではない。高校上級生になるまでには、嫌悪し、あるいは非倫理的であるとか無意味である等と感じる思想に触れるクラスや集会に出席したり、宿題をしたりしなければならないことは疑問の余地がない。こうした事情を考えれば、生徒が教育過程で侮辱的あるいは非宗教的と感じる思想を経験させられながら、一方では学校が短い正規の祈祷式の実施を否定されるという司法判断を奇妙だと考えるかもしれない。しかし、この主張は入れられない。これは憲法の基本的ダイナミズムを見過ごしている。
修正第一条は言論と宗教をまったく異なったメカニズムによって守っている。言論は、政府が関与する場合でも完全な表現を確保されることで守られている。一部の最も重要な言論は、政府に特定の考えを採用するよう説得することを目的とするからである。(ミーズ対キーン、481、U.S.465、480-481(1987)。またケラー対カリフォルニア州法曹協会、496U.S.1、10-11(1990)、アブード対デトロイト教育委員会、431U.S.3.9(1977)) 信仰の自由と宗教に係わる良心の自由を守る方法は、これとはまったく逆である。宗教に関する論争や表現において、政府は主たる参加者ではない。立法者は国教樹立をすべての自由に対立すると考えていたからである。信教の自由条項は、修正第一条の言論の自由条項にきわめて類似の良心と礼拝の自由を包含するが、国教樹立禁止条項はとくに宗教的事項に対する国家の介入形態を禁止するもので、言論の自由条項にはこれにあたるものはない。(バックリー対ヴァレオ、424U.S.2、92-93、およびn.127(1976)(裁判所意見)
) この根拠は国教樹立禁止条項のもととなった教訓で、その教訓とは政府の手にかかるとはじめは寛容な宗教的見解の表現であったものが、教条主義と強制の政策になりかねないということである。官製の正統主義は、信仰が押しつけでなく真実のものであることを唯一保証する信教と良心の自由を重大な危機に陥れる。
修正第一条は起草された18世紀と同じく現代でも緊急性をもっている。時代にかかわりない教訓の一つは、市民が国家に後援された宗教行為の対象とされれば、国家は自由な国民の印である個人の侵すべからざる良心と信条の領域を守り、尊重するという自らの義務を否定することになるということである。今日、この原則を曲げれば、われわれ自身の伝統を否定し、この伝統を守るべきだと他者に求める根拠を失うこととなる。
先に見たとおり、小学校及び中学校で良心の自由を微妙な強制の圧力から守ることに関する懸念が高まっている。(アビントン校区対シェンプ、374U.S.203、307
(1963)(ケネディ判事、補足意見)
) エンゲル対ヴィタル事件(370U.S.421(1962))の裁決及びアビントン校区の判例は、とりわけ公立学校の祈祷が間接的な強制という具体的な危険をはらんでいることを認めている。この懸念は、学校の場に限られるものではないにしても、学校において最も顕著である。(アレゲニー郡対グレイターピッツバーグACLU、492U.S.661(ケネディ判事の一部同意、一部反対の補足意見)) 大半の信者が非信者に宗教的行為への当然の敬意を求めるにすぎないと見る事柄が、学校の場では、無信仰者あるいは非信者に国家機構を利用して宗教的正統性を強制することと受けとめられるかもしれない。
こうした現象については、本件の状況以上のことを考える必要はない。卒業式に対する校区の監視とコントロールが、列席生徒に対して祈祷と祝福の間、集団として起立するか少なくとも敬意ある沈黙を守るよう、同世代仲間からかかる圧力とならんで公的圧力を加えることになるのは否定できない事実である。この圧力は微妙で間接的なものであっても、あからさまな強制と同じく現実的であり得る。もちろん、われわれの文化では、起立あるいは沈黙は、ある見解への賛成を意味するだけでなく、他者の見解への単なる敬意をも意味し得る。また、祈祷に加わりたくないと考える人々の一部は、他者への敬意の証としての起立に反対しないだろうことも疑いない。だが、高校生の年齢の非信者で、良心の自由に反するやり方で国家に祈祷を強制されているという妥当な感受性をもつ者にとっては、侵害の実質性は少しも減らない。卒業式に列席する生徒の大半とはいえないまでも多くの者にとって、起立あるいは沈黙という行為がラビの祈祷への参加を表明することは疑問の余地がない。これこそが、宗教的行為の要点である。したがって、起立あるいは沈黙は参加ではなく単なる敬意であると言われても、非信者にとってたいした救いにはならない。重要なのは、われわれの社会的慣習では、集団的行動は自らの参加あるいは賛意を意味すると、良識ある非信者が信じる可能性があることである。
こうした状況を憲法違反でないとすることは、反対者をあらゆる意味で参加するか抗議するかのジレンマに立たせることになる。われわれは、そのジレンマに立たされる者が成熟した大人である場合、その選択が認められるものであるかどうかは問わないが、国家は国教樹立禁止条項に則り、小学校及び中学校の生徒をこのジレンマに立たせてはならないと考える。若者は同じ行動を強いる仲間からの圧力に敏感であることが多く、その影響力は社会的慣習について最も大きいことは心理学的研究によって確認されている。(ブリタン、青年の選択と良心‐仲間の対立する圧力、28Am.社会学紀要、385(1963年6月)
クラセン及びブラウン、青年期における仲間の圧力の多面性、14J.若者と青年
451(1985年12月)ブラウン、クラセン及びアイチャー、仲間の圧力の知覚、同世代同一性の傾向、青年の自発的報告による行動、22
発達心理学521(1986年6月))国家が強制する選択は許容し得ない制約であると認識することは、政府が正統性を強要するために直接的手段を用いてはならないのと同じく社会的圧力を用いてもならないことを認めることにすぎない。
政府の行動による被害、及びダニエル・ワイスマンとデボラ・ワイスマンがこれに反対する理由は、学校の場で国家が事実上宗教的行事への参加を要求していることである。これは短い行事であり、個人はそのメッセージに没頭してもよく、自らの宗教について考えていても、上の空でいてもいいことは確かである。だが、宗教的行事のもつ不当性と侵害を、これらの祈祷も将来の同様のそれも些細なものであるということを根拠に否定することはできない。これは、祈祷を行ったラビと、祈祷を聖なる権威の本質的認識と考える者への侮辱である。また、同じ理由で、侵害はこれらの祈祷に費やされる約2分間という時間以上のものであると考える。祈祷は反対する生徒と両親への攻撃であることを認めなければならず、そうであるならば侵害は実質的であり、中学校の場では反対者の権利の侵害でもある。侵害が特定の宗派ではなくて市民的あるいは無宗派の宗教の表明のなかで起こるからといって、反対者への攻撃あるいは排除は少しも減少しない。良くてもその数を減らすだけであり、悪くすれば、排除と嫌悪を増幅する。
地方裁判所では卒業式と修業式への参列は任意であるという主張があった。(合意された事実の陳述、41
App.18
) 上訴人と法廷助言者としての連邦政府は、これを主たる根拠として、卒業式に欠席するという選択肢があるゆえに卒業式自体の誘導性あるいは強制は許されると主張する。だが、この主張は説得力がない。法律は形式主義を取らない。十代の生徒が高校の卒業式に欠席する選択肢を実質的に有すると言うことは、極端な形式主義である。確かにデボラが卒業式に欠席することを選択しても、卒業資格を否定されることはなかっただろう。だが、これを根拠に本件の裁決を覆すべきではない。われわれの社会、文化では、卒業式は人生のなかでとくに重要な行事であることは誰もが知っている。欠席を認める学校規則はここでは意味がない。正規の規則では出席を要件としていないかもしれないが、生徒には真の意味で「自発的に」卒業式に欠席する自由はない。欠席するには少年時代、そして高校時代を通じて楽しみにしていた無形の恩恵を放棄しなければならないからである。卒業式は家族や生徒に近しい者にとって学業成就を祝い、感謝と敬意を表しあう機会であり、社会及びそのさまざまな部門で若者が引き受けるべき権利であり義務である役割を印象づけるための儀式である。
この行事の重要性を根拠として、校区及び連邦政府は正式の祈祷が許されるべきであると主張するが、これは逆にその主張が拒まれるべき主要な理由となっている。国家の行為を制約する憲法が適用されなければ、相当の力をもつものと思われる上訴人らの主張は、祈祷がこうした儀式に不可欠の一部であり、たとえ短くても人間的達成は精神的エッセンスと切り放しては考えられないことを認識する部分がなければ、多くの者にとっては卒業式の意味が失われるというところにある。われわれは、この利害関係が生徒に従順か放棄かを迫るに充分な根拠となるという政府の主張は、基本的に議論の整合性を欠くと考える。この主張は、デボラの級友と両親の多くにとっては精神的必要事であることが、ダニエルとデボラ・ワイスマンには国家による宗教的従順の強制であることを認識していない。社会によっては多数の願望が支配するかもしれないが、修正第一条の国教樹立禁止条項はこの緊急性を踏まえて、これを優先させることを否定している。憲法は国家が生徒に、高校の卒業式への出席と引き換えに宗教的従順を強制することを禁止している。これは憲法の本義である。
政府の主張は、若い生徒が直面する良心の真の葛藤を充分に認識していない。政府の主張の核心は、この重要な市民的、社会的行事に照らして、多数者ではなく反対者が宗教的な葛藤を避けるために一方的で私的な行動を取る、すなわち卒業式に欠席することを選ぶべきであるということである。これは、修正第一条の伝統的分析に真っ向から対立する。修正第一条の主旨は、国家は市民に国家が後援する宗教行為参加への抵抗の代償として権利及び福祉の放棄を要求してはならないということである。生徒が最初の祈祷と終わりの祝福の際に卒業式から離れていなければならないということは、とくに強制のリスクが高い教室類似の環境で全体一致を強制することになる危険がある。エンゲル対ヴィタル(370
U.S.430 )及びアビントン校区対シェンプ(374 U.S.
224-225)の判例を見るだけでも、生徒が法的に毎日の祈祷に自発的に欠席するか参加するかを選択できるとしても、これらの行為の違法性を免れる理由にはならないこと、卒業式への出席が法的な意味で任意であっても、宗教行為の違法性を免れ得ないことは明白である。
公立学校システムと州立法議会との相違により、本件をマーシュ対チェンバース(463
U.S.783(1983)
)と同列に扱うことはできない。われわれが祈祷と祝福に異論を唱える際に検討している事柄の多くは、マーシュ事件で検討したことと類似である。だが、明らかな違いもある。成人が見解を表明したり理由を述べたりせずに自由に出席退出できる州立法議会開会式を、生徒にとって最も重要な制約力をもつ学校儀式と同列に扱うことはできない。卒業式における正式な祈祷行為のもつ影響と力は、マーシュ事件で認めた祈祷よりもはるかに大きい。マーシュ事件では、多数意見はとくにこの相違を重視し、この場における祈祷を認めるにあたって、この相違を根拠とした。(463
U.S.792
) 本件はこれと異なる。高校の卒業式では、教師と校長はプログラム、スピーチ、タイミング、学生の動き、服装、作法に高度のコントロール力を有しているはずであり、実際に有している。・(ベセル校区、No403対フレイザー,478
U.S.675(1986)
) この状況では学校が選んだ聖職者による祈祷と祝福は国家強制の性格を帯び、祈祷は国家が認可する宗教行為となり、生徒は参加するしかない。これはマーシュ事件とは異なり、宗教行為を修正第一条違反とするに充分である。国教禁止条項の法的効力は微妙で事実に照らして決まるべきもので、われわれは上訴人及び連邦が主張根拠としているマーシュ事件の事実と本件との類似性を認めることはできない。エンゲル対ヴィタル判例、アビントン校区対シェンプ判例によれば、公立学校という場は区別して考えるべきである。
われわれは、一人あるいは複数の市民が反対したからといって、宗教的意味をもつ国家行為のすべてが無効になるとするわけではない。非宗教的なメッセージと同じく、あらゆる宗教行為に反対者があることは考えられるが、反対があるだけですべてが違法となるのではない。また、良心と全体一致への反対の代償として社会的な孤立、あるいは怒りすらも忍ばなければならない場合がある。だが、本件を検討する限り、本件において政府が求めた全体一致は国教禁止条項違反を免れるにはあまりに高度の強制である。本件の祈祷行為は、国家があら艪骭サ実的な意味で、すべての生徒にとって非常に重要な行事であり、反対する生徒に回避する選択肢がない場で、明白な宗教行為に出席と参加を強制するものであり、とくに不適切である。
この分野におけるわが国の法律では、どこからが国家による反対者の信教の自由侵害にあたるかを決定する線を引く必要がある。
「修正第一条は、現実的な意味でこの条項が防止しようとしている危険をともなわず、 直接的あるいは実質的に国家を宗教行為に関与させたり、宗教を有意の現実的影響力 をもつ方法で優遇したりしない行為を禁じてはいない。もちろん、小さな始まりから 大きな結果が生じる可能性はあるが、憲法判断の方途は実質的な脅威と単なる影とを 区分する力と意思にある」(アビントン校区対シェンプ判例、308(ゴールドバーグ判事、補足意見
)
われわれの社会は、若者の価値感につねに関心を払い、学生生活においては、今日の法律が求めているよりもさらに高い倫理を教える場があるべきだという多数者の信念に深い共感をもたなければ、その伝統に背くことになるだろう。われわれは、こうした希求に何ら敵対するものではないし、宣誓している立場からもそうしたことはできない。宗教を公的生活のすべての面から排除しようという容赦ない徹底的な試みは、それ自身憲法に合致しない。(アビントン校区判例
306(ゴールドバーグ判事、補足意見)) われわれは、卒業時及び教育期間を通じて、宗教的価値観、宗教行為、宗教関係者が公立学校及び生徒と係わりあう場があることを認める。(ウェストサイド・コミュニティ教育委員会対マーゲンス、496
U.S.226(1990)
) だが本件では、宗教の便宜の問題であるこうした多くの問題を審理しているのではない。ここで問題となっているのは、これまで見てきたように、反対する若い卒業生が全体一致を促される卒業式において宗教行為を行うことができるかということだけである。本裁判所の判断からして、学校が生徒に宗教行為に参加するよう説得したり強制したりすることはできない。本件ではそうしたことが行われており、修正第一条の国教樹立禁止条項によってこれは禁止されている。
これまで述べた理由により、上訴裁判所は原判決を維持する。
ブラックマン判事の補足意見。スティーヴンス判事及びオコーナー判事が同意。
半世紀近くの見直しと練磨によって、国教禁止法制から一つの明確な理解が生まれている。政府はいかなる宗教的信条、組織をも推進したり積極的承認を与えたりしてはならず、また宗教機関内部の出来事に口出しをしてもならないということである。これらの原則を本件に適用すれば、当然、本日の本法廷の結論に達する。
T
本法廷が最初に国教樹立禁止条項のもとでの州法の合憲性について検討したのは、エヴァーソン対教育委員会事件(330
U.S.1(1947)
)であった。本条項の歴史とこれまでの分析に照らして、ブラック判事は国教樹立禁止条項法理の試金石となった検討について述べた。州も連邦政府も、一つの宗教あるいはすべての宗教を援助し、または一つの宗教を他の宗教より優遇する法律を制定することはできない。州も連邦政府もいかなる宗教組織の事柄にもおおっぴらに、あるいは密かに参加することはできないし、またその逆も禁じられている。ジェファーソンの言葉を借りれば、法律による宗教樹立を禁止した条項は、・様のそれも些細なものであるということを根拠に否定することはできない。これは、祈祷を行ったラビと、祈祷を聖なる権威の本質的認識と考える者への侮辱である。また、同じ理由で、侵害はこれらの祈祷に費やされる約2分間という時間以上のものであると考える。祈祷は反対する生徒と両親への攻撃であることを認めなければならず、そうであるならば侵害は実質的であり、中学校の場では反対者の権利の侵害でもある。侵害が特定の宗派ではなくて市民的あるいは無宗派の宗教の表明のなかで起こるからといって、反対者への攻撃あるいは排除は少しも減少しない。良くてもその数を減らすだけであり、悪くすれば、排除と嫌悪を増幅する。
地方裁判所では卒業式と修業式への参列は任意であるという主張があった。(合意された事実の陳述、41
App.18
) 上訴人と法廷助言者としての連邦政府は、これを主たる根拠として、卒業式に欠席するという選択肢があるゆえに卒業式自体の誘導性あるいは強制は許されると主張する。だが、この主張は説得力がない。法律は形式主義を取らない。十代の生徒が